適塾⑥福沢諭吉

以前このブログでも触れたように、私のふるさとを治めていた厚狭毛利家のお抱え医の家系・桑原兄弟が、緒方洪庵先生の大阪適塾塾生であったことから、それを調べる過程で大阪大学適塾記念センターが運営されている、適塾記念会に入会している。
この為最新の機関誌「適塾No53」が送られてきた。
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この中に一時期適塾の塾頭(じゅくとう・塾生の中で最高位)でもあった福沢諭吉の自叙伝「福翁自伝」を元に、当時の適塾塾生の日常生活を追跡した、大阪大学適塾記念センター助教・尾崎真理さんの〈「大坂」と洪庵・適塾生ー北船場を中心に〉と題した面白い講演記録が、掲載されている、

福沢諭吉は云わずと知れた慶應義塾大学の創設者で一万円札でも顔馴染み。九州中津藩下級武士の出身で、生まれたのが大坂堂島に有った中津藩大坂蔵屋敷と云われる。
地図で見ると生誕地と適塾のあった大坂北浜とは驚くほど近いことが良く分かる。

この記録を読むと当時の若い塾生たちの血気盛んな有り様が良くも悪くも分かるがその一端は、
・当時およそ普通の人間らしいものは出入りしない、牛鍋屋や鶏肉屋(とりや)での食事や出入り。
・繁華街・道頓堀や遊里の新町新地などでの遊興いたずら。
・酒屋をだまして化学実験用に徳利を盗む。
・薬屋の依頼で熊の解剖、薬になる胆のとりだし。
・罪人の解剖。
・但しいたずら遊興の類いは月に6度設定される会読(試験)の終わったあと位でそれ以外はひたすら勉強に没頭。
等と、若い日にありがちな日常が描写されている。

また「福翁自伝」にはこうも書かれているらしい。
・学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出るものはなかろうと思われる。
・大阪からわざわざ江戸に学びに行くというものはない。行けば則ち教えるという方であった。
・ただ昼夜苦しんでむつかしい原書を読んで面白がっているような、言うならば「目的なしの勉強」のお陰で大坂の書生は江戸の書生よりもよく勉強ができたのであろう。

これらの記述から福沢諭吉は、
「目先の利益のみにとらわれず、純粋な好奇心や向学心をもって広く深く学ぼうとする適塾生の姿勢が、適塾が優秀な人材を多数輩出した理由だ」と考えているようだと、講演者の尾崎さんは総括されている。

何れにしろ、かつて大阪に適塾があり、今もその建物が当時のままで立派に保存され、更にその研究が継続されていることは、大阪の懐の深さを表していると思える。

◎歩きの途中、南天の実が紅い。
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