江戸時代は想像以上に教育システムが出来上がった時代であった。例えば庶民までも含めた識字率は世界トップクラスと云われ一説には全国平均で50%を超えていたとされる。
江戸には幕府の昌平坂(しょうへいざか)学問所がありそれぞれの藩には藩校があった。
私のふるさと長州藩では萩に藩校・明倫館(めいりんかん)があり、大身の家臣の領内には郷校(きょうこう)があった。例えば厚狭毛利家では朝陽館(ちょうようかん)と呼ばれ厚狭毛利家居館の側にあり文のみでなく武についても道場が付属していた。
庶民が学ぶ場は一部郷校にも門戸が開かれていたが基本は寺子屋で読み書き算盤を習得する。
藩校で学んだものが郷校で教え、郷校で学んだものが寺子屋で教える流れが出来ていた。
郷校のなかには有志が開いたものも沢山あり全国から有名校に俊才が集まる事も普通であった。
個人的に明治維新に影響を与えた郷校を挙げると、思想面では吉田松陰の松下村塾、実学(蘭学、医学)面では緒方洪庵の適塾が双璧だろうと思っている。
その大阪適塾にはふるさと厚狭からも塾生として学んだ大先輩が居られることが分かり、その縁で大阪大学が運営している「適塾記念会」に入会させてもらっているがその機関誌「適塾No55」が届いた。
その機関誌には最終ページに「適塾の概略」が載っており、少し長いが記述内容が的確で引用させて貰うことにした。
『適塾は、蘭学者緒方洪庵(1810~1863)が、天保9年(1838)に開設し、文久2年に幕府の奥医師として江戸に迎えられるまでの24年間にわたって日本全土から集まった門人に蘭学・医学を教えた学塾です。塾生には、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した、橋本左内、大村益次郎、福澤諭吉、長輿専斎、高松凌雲、佐野常民、大鳥圭介ら多くの人材が名前を連ねています。
適塾は昭和15年大阪府の史跡、昭和16年国の史跡、昭和39年に重要文化財に指定され、その後文化庁によって解体修復工事(昭和51年~55年)が行われ洪庵居住当時の姿に復原されました。
この適塾は、我が国の蘭学発展の拠点mになった歴史を伝えるばかりか、当時の大阪北浜の町屋の姿を示す貴重な建物です』
【ひそと咲く 愁いもあるや 花八ツ手】
🔘施設の玄関脇、八ツ手が咲いている。