この実行されずに終わった石田三成のクーデター計画は、秀吉の死後武断派と呼ばれる加藤清正、福島正則など七将が、朝鮮出兵時の遺恨から石田三成を襲撃、三成は辛くも危地を脱し伏見城内の自邸に籠った時点から始まる。いわゆる世にいう「七将襲撃事件」である。
(従来この七将襲撃事件で石田三成は、徳川家康の屋敷に逃げ込んだと云われていたが、最新の研究で逃げ込んだのは伏見城の自邸とされる)
これ以降の動きを、番組は主に厚狭毛利家文書・毛利元康宛毛利輝元書状の内容によって追跡するが、その多くは「関ヶ原前夜」に引用されている。ここでは字数の関係から一例のみを以下に記す。
原文
治少より、小西寺澤越され候わば、ねらいたて仕り候者一向珍事なく結句手おきたる、今においては仕合わせ候条、此方より仕懸けらるべく候、左候わば、輝も天馬のごとく罷り下り、陣取りあまさきへ持ち続け候様にと申され候事
現代文訳
石田三成から使いとして小西行長と寺澤正成が来られた。石田三成は「私を狙った者達は成果をあげることが出来ず、むしろ手をこまねいている今はよい機会ですので、こちらから仕掛けられるのがよいでしょう。そこで、輝元も天馬のように都から下って、陣を尼崎に敷き続けるように」と申された。
*石田三成の当時の官職が治部少輔(じぶのしょう)だったので治少と記される。また毛利輝元は身内宛の気安さか自分のことを輝と記す。
*尼崎は大阪から見ると淀川の対岸で西国を押さえる位置にある。
石田三成の作戦は、豊臣奉行衆が大坂城の豊臣秀頼を奉じたうえで、一方大阪への備えとなる尼崎に陣を張った輝元と共に西日本の大名を結集して、伏見城にいる三成と協力して徳川方を討つというものであったと推定されている。
しかしこの企ては、当時大坂城の在番であった徳川派の大名に秀頼を押さえられたことなどから頓挫し、徳川方(反三成)、反徳川方の和解が、石田三成が中央政界から退いて居城佐和山へ引退することで成立することになる。
この未遂に終わったクーデター計画は一年後関ヶ原合戦前段の石田三成などの西軍挙兵行動の予行といえるものだったことがわかる。
私が追跡している厚狭毛利家の家祖である毛利元康のことは、このブログで何度も触れてきた気がするが、関ヶ原合戦の翌年42歳の若さで亡くなるまで、毛利家の柱石と呼ばれるにふさわしい立場にあったことが、この番組のお蔭で少し知られるようになり個人的にも嬉しい。
🔘今日の一句
稲田来て穂粒幾つと農家の子
🔘庭で見かけたツマグロヒョウモン蝶