期日前投票で思った、民主主義のコストは高い?

先日の参議院選挙では生まれて初めて期日前投票に参加した。
住んでいる施設内で期日前の投票所が設置され、申し込めば居ながらにして投票できると連絡があり申し込んだ。

当然、兵庫県選挙区での投票と思っていたが、転入して間もないため住民票が異動していても、もとの住所の大阪選挙区での投票になるとの事であった。
(これは多分選挙のためだけに住民票を移動させることの不正防止策なのだろう)

そうすると大阪まで出向かなければ投票できないのかと一瞬落胆したが、施設の方で旧住所の役所に連絡して投票用紙を取り寄せ期日前投票が出来るようにするとの事であった。

期日前投票日に施設内の設定された場所に行くと、投票用紙と封筒が来ており用紙に記入して封筒に2重に密封、その後旧住所の役所に送られるとのことで権利を行使出来たことになる。

まるでお客さんのような扱いで関係者には手数をかけてしまい、よほど慎重に考えて投票しなければ申し訳ないような気になってしまう。

こういった選挙の投票促進、権利の確保といった地道な活動は海外居住者、過疎地の住人などを含めて幅広く行われていると思われるが、場所の設営などそれぞれに相当なコストがかかっていると想像してしまい、民主主義は手数がかかると一般に云われることが実感として身に染みた。

これをきっかけに考えて見ても、マスコミでの毎日の政見放送やポスター掲示場所の確保等々、想像以上のコストを必要としている気がする。

このコストに対し相応しい効果が得られているのか、今回ようやく50%を超えた程度で他国に比べた投票率の低さも含めてよくよく考える必要があると思ってしまった。

費用対効果を上げるにはなかなか難しい現実が待っている。
①費用を下げるーー例えば電子投票などの検討ーーシステム初期投資と信頼性対策が必要。
②効果を上げるーー当選する人の働きを上げるーーこれは選ぶ側のレベルで決まってしまい、子供の頃からの地道な教育が重要だろう。

何れにしろこの民主主義の維持に必要なコストが意味がある効果として見出だせなければ、この先手間と時間がかかる民主主義自体が揺らいでしまい、より一層権威主義専制主義の台頭を許してしまうのではと老婆心ながら思ってしまう。

と、ここまで書いてきてふと思ったのだが作家・塩野七生さんの著書「ローマ人の物語」ではユリウス・カエサルは「賽は投げられた」とルビコン川を渡り更に宿敵・ポンペイウスを討った後、ローマの将来を見据えて民主制(元老院制)から帝政への転換を志向したと書かれていた。
その理由は何であったのかもう一度読み返してみよう。

🔘施設の庭シリーズ