6月17日のブログの続き。
川路聖謨など幕府のロシア使節応接掛が長崎でロシア提督・プチャーチンと折衝し一旦帰国させた。
その一年後嘉永7年(1854)10月、プチャーチンは函館、大阪を経由して伊豆下田に再来、条約締結を強く求めた。
幕府は大目付・筒井肥前守、勘定奉行・川路左衛門尉(聖謨)
を全権として任命し応接、安政元年(1854)12月21日日露和親条約の締結に至る。
この条約内容が川路聖謨の刊行された下田日記に(注)として付記されている。
とても興味があり主なところの要約を私なりにしてみた。
日露和親条約
・ロシア全権プチャーチン提督、日本側筒井肥前守、川路左衛門尉で次の条々を定める。
第一条 今後両国は末長く友好にして各々の所領内で人命や器物に損害がないように計らう。
第二条 今後日本とロシアとの境界はエトロフ島とウルップ島との間とする。
カラフトについては境界を分けずこれまでの仕来り通りとする。
第三条 日本はロシア船の為に函館・下田・長崎の三港を開く。この地では難破の修理、薪水食料や石炭などを対価を以て給する。
第四条 難船・漂流民は互いに扶助し送り返す。
第五条 ロシア船が下田・函館へ渡来の際は金銀や品物を以て入用品の支払いをゆるす。
第六条 もしやむを得ない事が起きた場合ロシアは函館・下田の内一港に官吏を置く。
第七条 もし打ち合わせを要する事が発生した場合は日本は熟考し取り計らう。
第八条 もし互いの国に居留するもので法を犯すものがあればその国の法を適用する。
第九条 日本が今後他国へ免ずることは同時にロシア人にも適用すること。
★全体を通して日本の威信は保たれている内容と思え今日までの幕臣・川路聖謨の評価の元と思える。
★第二条は現在の日本の北方領土に対する考えの基本と同じ択捉(エトロフ)島以南は日本と書かれている。
★第九条はいわゆる最恵国待遇の求めに応じたものである。
・川路聖謨は勘定奉行、外国奉行を経て隠居したが晩年中風を患い病臥の日々を送るが、慶応4年(1868)3月15日官軍による江戸城総攻撃が予定された日にピストル自殺を遂げ、江戸幕府に殉じたと解釈される。
当時の幕臣にも極めて優秀な人物が居た事が実例として良く分かる。
◎昨日は雨で中止した19日の代替で、ホームコースでいつものメンバーと3人ゴルフ。
スコアーは46、45、91、最近もう一歩のところで90が切れない。残念です。
コース高台から見る朝の葛城山(左)と金剛山(右)
練習グリーンから見る朝の岩湧山