川路聖謨(かわじとしあきら)②長崎日記

6月12日のこの日記に、幕末の開明的な幕臣のひとり川路聖謨が、幕末のロシア使節プチャーチンの長崎来航に伴い、応接掛として江戸から長崎に下向途中に、ふるさと厚狭の隣町・船木に泊まった記録がある事を書いた。

色々調べて見ると川路聖謨のこの長崎日記が平凡社東洋文庫の巻124として刊行されていることが分かり、図書館で予約し取り寄せて貰った。
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日記は・江戸より長崎まで・長崎にて・長崎より江戸まで
の3章に分かれており、出立に当たり江戸城で13代将軍家定に面謁するところから始まり、プチャーチンとの折衝を経て江戸へ帰着するまでが書かれてあり、往復とも旧山陽道を通り厚狭を通過したことが見えてくる。
厚狭に遺る旧山陽道の道しるべ
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その中から船木で止宿する前後の記述を探すと

往路 嘉永六年(1853)十二月朔(一)日 晴
~小郡にて昼休。毛利家の茶屋本陣なり。船木にいたり止宿。これ又茶屋本陣也。この茶屋本陣というものは、領主普請とみえて大造なるもの也。きょうは松平大膳大夫(萩毛利藩主)より昼休へは(鯛二、野菜物)泊へは(鯛二、野菜物)贈物有り~

二日 晴
暁に船木を出て、吉田と云う所にて昼休いたす。ここも領主の茶屋にて、大造なる構也。さながら寺のごとし。其一里前に、石炭(いしずみ)という所有り。石炭出るかと尋ねしに、少々は出ると云う。~

復路 嘉永七年(1854)一月二十八日 くもり
六半時(午前7時)下関出立いたし、吉田に昼休いたし、船木に止宿也。異国船のこと毛利家へ相尋ね候処、取り沙汰はいたし候得共、たしかなる事は承らざる旨申し答え候。~

★毛利領通過に当たり川路は毎日、昼と夜2回鯛や野菜物を贈られており、外様大名として毛利家が幕府に気を遣う様子がよくわかる。

★石炭(いしずみ)は厚狭の西端にある集落で、昔から石炭が出ていたとされ名前の由来になっている。
この頃外国蒸気船は石炭を使用していることが判っており、その点から川路は石炭に興味を持ったようである。

★復路の厚狭毛利家領・船木で川路が異国船のことを尋ねた相手は、萩藩の者か厚狭毛利家の者かは分からないが、丁度この時米国使節ペリーが、幕府の回答を求め再度浦賀沖へ来航しており、幕吏の川路は大いに気になっていた様子がうかがえる。
毛利側も情報は既に得ていたはずで、うかつなことを答えてはいけないとの思いが出ているのだろう。

★川路はこの時「左衛門尉」に任官、勘定奉行であったため本来駕籠での道中であるべきだが碓氷峠を越える辺りの記述で鍛練のために歩行していることが書かれてあり、このような点からも優秀な官僚であったことがうかがえる。
ーーー厚狭川を渡って山陽道を歩く川路聖謨の姿が確かに浮かんでくる。

◎歩きの途中の川端に自生しているのはなんと云う植物だろうか、花だろうか実だろうか定かでない。
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