厚狭毛利家代官所日記⑮嘉永5年③異国船騒動②

9月30日の続き

嘉永5年(1852)閏2月22日夜、厚狭毛利家役所に日本海に異国船が現れたとの萩からの急報がもたらされ、領内村々からの動員など臨戦体制に入ったが、その後の代官所日記には全く続報が記されていない。

色々史料を当たってみたが、翌年嘉永6年には有名な米国ペリー提督の浦賀への来航、ロシア使節プチャーチンの長崎への来航などが続くが、嘉永5年にはそのような公式記録は見当たらない。

この急報は萩からもたらされているので、萩・毛利藩の記録はどうなっているのかを山口県立文書館にお願いして調べてもらったところ2回に分けて次のような回答を頂いた。

・萩藩の記録の一つ「密局日条」の同年閏2月22日条に
『昨晩大津肥中(ひじゅう)沖合いで漁人が異国船1艘を見たという報告があり、瀬戸崎の黄波戸(現在の長門市・きわど)からも同様船の報告があった』と記録されている。

・また同記録の2月23日条には
『藩が異国船を見たという漁人・定次郎と共に実地見分したが、結局船は何れともなく逃げ去ったようである』と記録されている。
とのことであった。
これで厚狭毛利家代官所日記には騒動の続報が記されていない事が理解できた。

記録から複数の証言が有ったことが分かり、不審な船を見たのは事実のようだが、私の勝手な推測ではその海域は古くからの捕鯨が盛んな場所であり、外国の捕鯨船かもしれない。
(ペリー提督来航の目的の一つは米国捕鯨船への物資補給協力依頼だったと言われている)

しかし代官所日記に記されたように、当時の人々の異国船に対する警戒、恐怖は現代の我々が想像できないほど広く深く行き渡っていたようで、翌年ペリー提督が来航した折りに作られたという有名な狂歌

泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四艘)で夜も眠れず
※上喜撰(じょうきせん)とは上等なお茶の名前

は当時の世情を的確に捉えていることが今更ながらよく分かる。

◎これは何の実だろうか?川沿いに自生している。