風土(ふうど)というもの

風土という言葉は「風土記(ふどき)」「風土病」などに使われているが、辞書などをみてみると

・その土地の気候、地味、地勢などをあらわす。

・文化の形成に影響を与えるような環境。

といった事が書かれてあり、いわば土地と人間の両方の意味を含めた言葉であると思われる。

私は今までこの風土を感じる場所として、住民票を移したレベルで見ると住んだ期間の長短は別にして、山口県厚狭、大阪府八尾、タイ・バンコク、中国・上海、それにまだ引っ越して間もない兵庫県神戸となるが、なるほど確かにその土地の風土というものはそれぞれに特徴的なものが有る気がしている。

当たり前だがタイや中国では最初にその「風土」というものの存在が壁になり跳ね返される。半年くらい経ってようやく気候や、人などが少しずつわかり始めて共存へ向けた本能が働き始める。       

といってもその風土に慣れることは出来ても同化するのはなかなか難しく私が海外で生活するモットーは「和して同ぜず」に決めていた。

大阪旧河内国から神戸の西方、旧播磨国に引っ越して数ヶ月なので共存へ向けた本能は未だしの気がするが、横断歩道を前にした車の動きなど違いのあれこれは少しずつ肌で感じている。

作家・司馬遼太郎さんはライフワークとも言える膨大な紀行文学「街道を行く」朝日新聞出版刊  の前段に「歴史を紀行する」文藝春秋刊  を書かれ、高知、会津、滋賀近江、長州など12の地方に紀行してその歴史を語られている。

その「あとがき」では概略以下のように風土について個人と集団が解かれる。

『ある人物を理解しようとする場合、「鹿児島県人だから豪放磊落(ごうほうらいらく)、大阪人はがめついといった通説で理解しようとするのはこっけいであてにならない」としつつ

「しかし風土というものは存在し、そういうものは個々のなかには微量にしかなくても、その個々が地理的現在において数十万、あるいは歴史的連鎖において数百万人もあつまると、あきらかに他とはちがうにおいがむれてくる。」』

私は長州人として生まれ育ったので自己診断すると、確かに幕末長州の松下村塾に連なる人々の気質を持っていることは間違いなくそれが誇りでもあるが、決してそれだけではないこともまた事実である。

これから神戸の西の端・垂水の地で暮らしていくなかでその風土とどう折りあえて、自分自身にどのような変化が起きるのか見きわめなければと思っている。

🔘施設の屋上庭園には、多分近くの公園などから飛来して居ついたと思える猫じゃらし(エノコログサ)が存在感を発揮している。

【雑草は  吾れのことかと  猫じゃらし】

厚狭毛利家代官所日記㊷元治元年(1864)嗣子の誕生

今まで書いてきたようにこの頃長州藩の内戦で厚狭毛利家当主が俗論派の旗頭になったが、内戦は敵対した正義派諸隊の勝利で終わり、厚狭毛利家は逼塞(ひっそく)に追い込まれた。

この厳しい状況下、厚狭毛利家に世継ぎが誕生する。

元治元年12月27日の記録

『若旦那様(養嗣子・宣次郎)御内用の女中平座なり、御男子様御誕生に成る処、思し召しにより旦那様(当主・能登)御養いとして御名を英之輔様と称される。末々に至るまで英の字を用捨のことを地方(じかた)まで沙汰すること』

(毛利宣次郎に男子誕生、母は武士階級ではない。当主・元美の養子として英之輔という名が付いた。この為領内では英の字の名前を用いないよう徹底する)

この後の代官所の記録には、内戦の混乱から避難するため、当主・元美(もとよし)の妻・勅子(ときこ)が英之輔を抱いて実家の徳山藩に船で避難したり、厚狭毛利家居館に近い惣社八幡宮にお宮参りする記事などが載っている。

🔘明治になり第9代当主元美(能登)、勅子夫妻には子がなく、元々元美の異母弟・宣次郎(親民)を養嗣子にしていたが、病弱の名目で廃嫡、他家より養子を迎え第10代親忠としてドイツ留学に送り出した。

親忠は帰国後24歳の若さで病死する。

この為11代は幕末動乱の渦中で誕生したこの英之輔が継承することになった。

🔘宣次郎を廃嫡した経過は非常に不自然なところがあり、2020年2月3日のこのブログで「世子廃嫡問題」として私の調べた結果と推理を書いたことがある。

 

【日数(ひかず) 過ぎ   転居あいさつ   虫の声】

 

🔘施設の屋上庭園から北西方向を見る。西北西方向に加古川の製鉄所の高炉らしい影が三基かすかに見える。

北の丹波地方の山々を見る

長州藩士・長井雅楽(ながいうた)/中秋の名月

幕末維新の激動のなかで滅亡の縁にも立たされた長州藩には非業の死を遂げた有為な士が多く出た。

あまり世間には知られていないが、藩士の中核である大組(おおくみ)士の出自であった長井雅楽もその一人で、その才を多くから嘱望されながら政治的な立ち位置から死を迎えることになった。

安政5年(1858)藩主毛利敬親の信任厚く、直目付(じきめつけ)という要職に就く。
文久元年(1861)当時国内で外交政策に関して政治対立が激しくなるなか、藩主の求めに応じその政策「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を建白し当時の藩論とされ中老職に抜擢。
更には幕府老中、朝廷にも周旋しいわば国論として認められた。

「航海遠略策」の骨子は次の通りである。
鎖国攘夷は日本の歴史からみても異端であり世界の現実とも適合しない。
日本はすすんで開国し、世界を圧するような商船隊を作って交易し得た富で武力を蓄えそれによって国家を守る』

明治維新後政府がすすめた政策を先取りしているような内容で先ずは国力を充実させることが肝要と説いている。

ところがこの後に攘夷論が沸騰し、幕府老中も交代、朝廷も航海遠略策の文言が朝廷を軽んじているとして問題視し始める。
長州藩でも長井の政敵とも言える松下村塾系の藩政府になり、「航海遠略策」を打ち出した翌年文久2年(1862)になると同じ藩主は長井雅楽切腹を命じる。

長井は堂々と切腹したがその心中穏やかざるものがあったに違いない。
世に坂本龍馬の「船中八策」なるものが有名だが、長井雅楽坂本龍馬の遥か先を行っていた。

抜きん出た構想や思想はその出された時期によって大きく異なる運命をたどることになる。

当時の藩主・毛利敬親は陰で「そうせい公」と言われた。
藩内の力関係が変わり政権交代の度に出される政策や反対派の粛清(しゅくせい)についてほとんど「そうせい」と了解することからついたあだ名で、この「そうせい」が明治維新を引き寄せたと言えなくもないが、長井雅楽切腹処分などは余りにひどい「そうせい」としか言い様がない。


🔘昨日は中秋の名月、来月の句会のテーマが「月見」なので是非とも見なければと思ったもののPM6時頃から8時頃まで雲に隠れて全く見えず。
と諦めかけてベランダに出たところPM8時過ぎに念願の十五夜の月を東の空にようやく見ることが出来た。


【満月が 雲より出でて 見得を切り】





ついでに当日の夜景


山口県在住の同級生からLINEで頂いた




 

稲刈りについてのあれこれ

山口県に住む同級生から「グループLINE」で稲刈り作業が始まっていることとの連絡があり、米の味、田んぼで遊んだこと、等々色々な懐かしい話が同級生間で飛び交った。

もう稲刈りの季節かとその早い時期には驚くが早生(わせ)種ではないらしい。早く実って早く収穫できれば、台風などの被害を抑えられ、病虫害のリスクも少なく出来る。

写真では今の農作業では当たり前になっている稲刈りと同時に脱穀(だっこく)迄行うコンバインを使い、集めた籾(もみ)を乾燥機に入れて乾燥し、その後籾摺(もみす)り機で玄米と籾殻(もみがら)に分離する。

その玄米を精米して糠(ぬか)を落とし白米としてご飯を炊くことになる。

都会に住むとポリ袋入り白米をスーパーで買って来ることが当たり前で、なかなか稲刈りなどの米作りのプロセスを知る機会がなく、ひょっとすると子供達の多くは白米として収穫されていると思っているかもしれない。

私の生家は農家だったのでこの稲刈りの時期は手伝いで忙しく、遊ぶ時間などとても無かったように記憶している。

当時の収穫のプロセスは

①鎌での手作業で稲を刈り、それを適当に束ねる。

②田んぼに稲を干すための木組みを作りそこに一束ずつ掛けていく。

③一週間程度干した後でそれを荷車で集めて山にしモーターで動かす脱穀機に人手で一束ずつかける。

脱穀した籾は庭に沢山の筵(むしろ)を広げ天日で繰り返し数日干す。(雨が降るとさあ大変)

⑤干した籾は籾摺り機で玄米と籾殻に分離し玄米は俵に詰めて農協に出荷する。

⑥稲藁(いなわら)は牛馬の餌の分や野菜作りに使う分を除き、籾殻と共に田んぼで焼いて肥料にする。

(LINEでも書かれていたが籾殻を焼くときにサツマイモを入れておくと実に旨い焼き芋になる)

といったことで今では考えられないような重労働であり、機械化は誰もが望んだと思うが、反面そのコストの重圧に苦しむことにもなる。

今では懐かしい風景、懐かしい想い出とも言えるがその時は農業だけはやりたくないと思ったのが本音であった。

農業を離れた立場では、環境や保水、食糧自給の点から米作りは必要だと簡単に言ってしまうが、内実を知っている立場からすると取り巻く労働環境や採算性に目処をつけない限り後継者不足は続く気がして、陰ながら憂いている。

LINEのなかで、米作りとは無縁だったが無性に懐かしさを感じるとの話があったが、稲刈りを含む米の収穫は日本人のDNA中に深く入り込んだ心に響く作業ではないかとも思える。

 

🔘【北西に   松嶽(まつたけ) 聳(そび)え                                                                             厚狭(あさ)の秋】

                                                                      

🔘強い風と雨に耐えながら施設の屋上庭園のフェンスに張り付く健気なアサガオ

正岡子規の写生文

最近になって施設の俳句サークルに入会し、朝歩いている時に感じたこと等が五、七、五に成らないか苦心している。
それだけに正岡子規には再び関心があり、

【柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

などは何度でもいいなあ!と思えてしまう。

【春や昔十五万石の城下哉(かな)】

これは子規のふるさと・伊予松山を吟ったものだが、このように簡潔に格調を持ってふるさとを表現出来たらなと、手本にしたい一句と思っている。

正岡子規を描いた小説には伊集院静さんが子規と夏目漱石の交遊を中心にした「ノボさん」「ミチクサ先生」や司馬遼太郎さんが明治の青春を描いた「坂の上の雲」などが思い浮かぶ。

正岡子規の本名は常規(つねのり)で俳号が子規である。
子規とはホトトギスのことで、自分が肺結核になり、鳴いて血を吐くといわれるほととぎすから採って号にしたといわれる。

結核から脊椎カリエスを発症、35歳で短い生涯を終える最後の数年間は寝たきりでありながら弟子を集め、俳句短歌の近代化を牽引した。

図書館で本棚を当たっていたときたまたま、夏目漱石ラフカディオ・ハーン正岡子規三人の小文集が目に止まり、子規の俳句、短歌以外の文章を是非とも読んでみようと借りて来た。

この本に載っている小文は「飯待つ間」「病(やまい)」「ラムプの影」「熊手と提灯」の四篇で何れも脊椎カリエスを発症して後に書かれたもので苦しい病状のなかでなお創作の意欲を失わない心が切々と伝わってくる。

特に「病」は、志願して日清戦争に従軍記者として大陸に渡り、帰国途中の船上で喀血して「病」を知る顛末が書かれているのだが、その微妙な心持ちが文章ににじみ出ているように思われる。

🔘鳶が空を舞うのは何故だろう?気がついた時に観察しているがはっきりとは分からない。
自分の巣を上空から見守っているような気もするのだが、
風が強くても負けずに舞う。

【台風に 負けじと鳶が 弧(ひと)り舞う】

【台風(かぜ)去りて 出船入り船 和泉灘(いずみなだ)】

「友だちのうちはどこ?」

1987年のイラン映画「友だちのうちはどこ?」がNHKBSのプレミアムシネマで放送され録画して観終えた。

イランの映画というのは多分人生初めて観ると思うのだが、単調で盛り上がりというのも特に無い中、終わってみると妙に心打たれる感じがある。

バックに響くペルシャ調の音楽が何とも言えず味がある。

イランの田舎の村の小学校に通う(多分3~4年生くらい?)主人公の少年・アハマッド。

教室でアハマッドのとなりに座る友人・ネマツアデは山を越えたポシュテという遠くの村から通っているが、宿題をノートに書かず紙に書いて先生に叱られる。
叱られるのは3度目で次にノートに書かなかったら退学を言い渡される。

下校して家に帰った後でアハマッドはネマツアデのノートを間違って自分のノートと一緒に持ち帰った事を知る。

このままでは友だちが退学になるので家族に言って遠くの村まで返しに行こうとするが家族に聞き入れてもらえず、母の眼を盗んで山を越えて友だちの家に向かうが見つからない。

とにかく観ていてかわいそうになるほど走り回り探し回るが、勘違い、行き違い、迷路のような村の作りのなかで宵闇が迫って来る等々の困難に出会し、渡せないまま夜になり家に戻る。

意を決したアハマッドは家で2人分の宿題を各々のノートに書いて学校に持参、先生の検閲に辛うじて間に合いネマツアデは救われる。

ついついストーリーまで書いてしまい、ネタバレになってしまったが、貧しい田舎の風景や人々の暮らしを写したぎこちない映像のなかから、少年の純真な必死さを通じてイラン映画の良さが垣間見得る。

最初で最後になるかも知れないイラン映画だが多分ずっと私の記憶に留まり続けるような気がしている。

🔘私はまだ入会していないが、施設の園芸サークルの畑では茄子が実を付けている、秋茄子だろうか。高台にあるので風の圧をもろに受けて激しく揺れ動く。

【強風に 小茄子が揺れて 試練なり】



9月句会の嬉しい結果

昨日は私にとって入会後2度目になる俳句サークル・9月の例会、11名の参加であった。

いつものとおりの手順で全員が7句ずつ無記名で短冊に書いて提出、それを分担して清書した後全員に回附、全てのなかから各人が自分の気に入った句を7句選んで読み上げると共に、その内の一句を特選句とするシステムである。

ここに来てようやくこの流れが理解できたような気がしている。

私は前回の句会8月4日以降にこのブログに書いてきたもののなかから次の7句を提出した。

①【古文書の 疑問解けたり 西瓜食(は)む】

②【開戦の 何故を思いて 長崎忌】

③【病葉(わくらば)に 朝のひかりは 容赦なく】

④【鳴く声に 知るや終わりを 法師蝉】

⑤【黄河には 星生む地あり 天の川】

⑥【今様の 石塔増えて 墓参】

⑦【団栗の 背丈比べる 朔(さく)の朝】

今回、私にとって誠に望外の結果で、①、③、④の三句が3人の方からの特選句に選ばれた。
おまけに⑦を除く六句が選句として読み上げられ、特に①は3人から②と④は2人から選句対象として読み上げられた。

①は今読み進めているふるさとの「厚狭毛利家代官所日記」に記録されている内容で、ずっと理解できなかった播磨国竜野藩・脇坂家と長府毛利家との繋がりがようやく解ったときの句で、私自身も気に入っていた句で二重に嬉しい。

ビギナーズラックという言葉があるがこれを励みにまた少しずつ作って行こうと思っている。

ところで私が選んだ特選句は

【悪妻に 徹して凌ぐ 残暑かな】

で、悪妻に「天晴れ(あっぱれ)!」マークを付けたいと思った次第です。
誰か「喝!」ではないかと言う声もあったが私ではありません。

🔘昨日は台風11号の影響で風が強く、海上を見るとここに引っ越してから初めて見るような浪が立っているのが見てとれた。
朝からいつもの漁船の姿なく、更に通常に比べ極端に船の航行が少ない中、荒れた海を黙々と走る貨物船があった。

【漁(いさ)り船 影見ぬ朝は 南風(はえ)来たる】

【野分け来(き)ぬ 何ぞ荒海 船一艘】