「戦国と宗教」

神田千里(かんだちさと)著「戦国と宗教」岩波新書版 を読み終えた。
著者は私と同年齢の歴史学者で中世史が専門で特に宗教社会史を手掛けて来られたとのことである。

この本では
戦国大名の呪術を含む信仰
一向一揆本願寺教団の実像
キリスト教との出逢いとキリシタン大名の誕生
・「天道」思想
などについて、当時の史料や今までの研究を元に戦国時代の大名や民衆が宗教や信仰をどう受け止めていたかが解明される。

史料の読み込みなどを通じ従来からの定説を覆すような見解も随所にあり特に私の新しい知見になったことは次の通り

・戦争は戦国大名にとって避けられない現実である。その現実に直面した大名は皆神仏への祈願を行った。
それは戦争の勝敗は人間には見えない神仏の作用であると考えられていたからである。

武田信玄上杉謙信が戦った5度の川中島合戦でも必ず双方が祈願を行っており、そのなかには呪術や占い等も含まれる。

・戦場での死を覚悟した武士達は名号、法号を記した守りや本尊を携行しキリシタンであっても聖遺物を持った。
鎧兜には神を勧請することが行われ、戦場に掲げる旗指物には神号や仏の名号、聖句などが記された。有名なものに
武田信玄ーー南無諏方南宮法性上下大明神(諏訪大社の神号)
上杉謙信ーー「毘」(毘沙門天を表す)
徳川家康ーー「厭離穢土 欣求浄土」(浄土信仰)

・越前(福井県)守護・朝倉貞景が一向一揆との戦いの後にある僧に尋ねた「我々は戦勝を八幡大菩薩に祈るがその点は敵方の一向一揆も同様である。我々は勝ち一揆は敗れた。八幡大菩薩の御利益はどうなっているのか?」

僧侶の答え「八幡大菩薩は我々に現世安穏の御利益を、敵方には後生善処(死後の極楽)の利益もたらすのです」

フランシスコ・ザビエル大内義隆の時代に山口に至り一寺院を与えられる。この時禅宗の僧侶と宣教師との間で教義の優劣についての論争「山口の宗論」があった。

・従来織田信長イエズス会に格別の好意を持ったと言われているが実際には「命令に従えば保護を加えるが、そうしなければキリシタンを滅ぼす」と明言していた。

・秀吉の伴天連追放令織田信長の「安土宗論」による法華宗の敗訴は当時の日本で一般的であった「天道思想」によるもので、神仏全ての信仰の容認、共存は原則であり他者の信仰への批判攻撃は是認されるものではなかった。
これは本願寺一向宗であっても同様であった。

【野分け来て よろめきつつも 歩む朝】

🔘施設の屋上庭園、これはニチニチソウのような気がする。



厚狭毛利家代官所日記㊶元治2年(1865)長州藩内戦終結と厚狭

高杉晋作の挙兵で始まった長州藩の俗論派政府と諸隊中心の正義派との衝突は激戦地の名前をとって一般に「大田・絵堂(おおたえどう)」の戦いと言われる。
(大田・絵堂は私のふるさと厚狭の北東、現在の美祢市の一部で、当時の政治の中心・山口と萩の中間点になる)

元治2年1月初旬に行われた戦闘は士気に勝る諸隊側が、藩の正規軍・先鋒隊側を圧倒した。
これを受け、中立派の藩士が鎮静会を結成し斡旋に乗り出す、また第一次長州征伐の幕府軍が兵を引き上げた(1月2日~)後に末家である長府藩清末藩なども斡旋に動いた。

途中先鋒隊の暴発もあるなか、2月9日萩城で御前会議が行われ「防長一和」「外に恭順、内に武備充実」の藩論が統一確定し、正義派中心の藩政府が組織される。

当然ながら俗論派に属した厚狭毛利家当主親子は失脚して厚狭は不遇をかこつことになる。

この頃の代官所日記は内戦絡みで色々なことが記録されているがその中で興味を引くものを抜粋すると、

1月7日の記録
「昨6日夜半、伊佐(いさ)、河原(かわら)、四郎ヶ原(しろうがはら)へ集まった諸隊、絵堂迄出張の一の手(先鋒隊)陣屋へ押し寄せ、絵堂を占領したと情報があった。」

1月8日の記録
「大田・絵堂辺りの模様を確めるため2名の士分を派遣したところ、大田は諸隊の本陣となっており行けない状況で帰ってきた」

1月9日の記録
「諸隊の者が御内輪(厚狭毛利家)を襲うとの噂があり厚狭周辺の各地へ家臣を派遣、何かあれば即刻報告するように指示した」

1月11日の記録
代官所の記録、絵図などを入れた二箱を去る8日、長谷次兵衛方へ預けた」

1月13日の記録
「吉田宰判の役所より以下の高札をするようにとの沙汰があったことが庄屋より申し出があった」

《隊のものども我意申しつのり御政道をさまたげるによって追討仰せ付けられる、しかれども先非を悔い改めるによっては一命をお助けなされる、早々に家に帰り以前の如く家業に勤めること。 十二月》

🔘当主の指揮する俗論派軍が敗れる中で厚狭が敵の諸隊から襲われるという噂が飛んだり、そのために書類を避難させたり、12月に藩の指示で立てた不都合な高札のことを庄屋が報告したり、大変な混乱が生じていることが分かる。

厚狭は下関攘夷戦争以来戦いのために随分、人・物・金の犠牲を払って来ているが、まさにこの結果として踏んだり蹴ったりの難局に置かれていることが分かる。

🔘施設の庭にも秋の兆しが。

「倍賞千恵子の現場」

女優で歌手の倍賞千恵子さんが2017年に書かれた「倍賞千恵子の現場」PHP新書 刊を読み終えた。
図書館で本を探していて偶然見つけて借りたものだがこの本に出会えて運が良かったと思っている。

このブログでも何回か触れたような気がするが、ほぼ同年代を生きた女優、歌手の中で私が一番共感を覚える人でファンでもある。

この本は松竹歌劇団・SKDから映画界に入り「庶民派女優」から、歌手としても仕事を全うするなかで、仕事の現場で出会った人々、現場の実際、仕事の悩みやそれを通じて得られた人生の指針などが倍賞さんらしい文体で書き進められており途中感心、感動して不覚にも2~3度涙が出てしまった。

またしばらくマスコミから遠ざかっていたときがありどうしたのかと思っていたがこの本で乳ガンで闘病されていたと初めて知った。

最も多くのページが割かれているのは当然の事ながら渥美清さんと山田洋次監督である。

・「男はつらいよ」の第1作の時、渥美さんは41歳で、倍賞さんは26歳、それから26年間に渡って兄と妹を演じて来たそうで、途中あくまで役柄なのに周りから「さくらさん」と呼ばれることがうとましくなったときもありそれらを乗り越えて今がある。

・倍賞さんが渥美さんを語ったことの一部
「私の渥美さんに対するイメージは「石」でした。山の上に大きなゴツゴツ普通の石があって、その石が何年も何年もかかってゴロゴロ麓に下りてくる。そうして人前に出てきたときには四角いツルンとした石になっていて、そこに細い目とイボをつけたら渥美さん。そばに行くとその石をどうしても触ってみたくなる。触ってみるとじわーっと温かさが伝わってくるーー渥美さんはそんな人でした」

・倍賞さんの出演作170本の内3分の1以上を担当したのが山田洋次監督、この本で初めて知ったのだが歌もヒットした出世作「下町の太陽」も山田監督の作品とのことである。

・倍賞さんが見た山田監督の印象
「もっと、もっと、とずーっと考えている人」
「山田さんはいつも「もっと何かある。まだ違う何かがあるんじゃないか」と頭を絞っているように見えます。」

🔘私は「男はつらいよ」の「さくら」以上に、好きなのが「家族」「故郷」で演じた「民子」役であり、この本の中でもその映画に触れられている。

「家族」で旅の途中で乳飲み子を病気で亡くし、葬式を出した後で崩れ落ちるように泣き続けるシーンや、「故郷」で夫役の井川比佐志さんと「石船」で共に働き、船を倒すように操作して石を降ろすシーンは未だに私の記憶にしっかりと刻まれており、この本の中で倍賞さんが回想される内容が胸に自然に落ちてくる。

【風やさし ひかり未だし 朝九月】


🔘屋上庭園は風が強いので出来るだけ丈を低くして咲いている。




長州の攘夷とは

ふるさと山口県厚狭を給領地とした厚狭毛利家の代官所日記を読み込んだり、長州・萩藩の明治維新前後の歴史を調べていくと、当時の長州人や長州藩のたどった行動で最も不可解と感じられることが「攘夷」という言葉にあるように思われる。

中国の中華思想は外縁の国々を「東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)」と呼んで見下した。したがって中華からみれば日本は東夷である。
日本もこれにならい外国を南蛮と呼んだり、夷狄と呼んだ。

「攘夷」とは夷狄を討ち攘(はら)うという意味でいわば鎖国の延長線上にあり武力行使を伴う。

幕末、長州藩と長州人は地理的な面や、吉田松陰に列なる思想などの影響から最も尖鋭的な「攘夷」行動に走り例えば、
文久2年(1863)高杉晋作久坂玄瑞井上馨伊藤博文品川弥二郎、山尾庸三など10余人で品川のイギリス公使館を焼き討ちした。
・朝廷と幕府が決めた攘夷実行期日文久3年(1863)5月10日、諸藩中唯一長州藩が下関で外国船を砲撃する。
などを引き起こしている。

藩が下関で外国船を砲撃した同月、文久三年5月12日藩上層部も認めて、いわゆる「長州ファイブ」の五人が英国への密航に出発した。この中には英国公使館焼き討ちに参加した井上馨伊藤博文、山尾庸三の三人が含まれており、彼らは明治維新後の西洋化、近代化の先導役になる。

開国を進めて通商条約を締結した幕府を倒した攘夷勢力が、開明的な新政府を樹立して西洋化を進める、いわば逆転現象を起こしていることになる。

このブログでも触れたことがあるが伊藤博文は初代兵庫県知事として維新直後、神戸の開港、開化を推進した。
井上馨は西洋化の象徴である明治鹿鳴館の主唱者でもあった。

長州藩の人々が当時本気で攘夷が成り立つと思っていたのか、あくまで旧体制を倒すための方法論と考えていたのか難しいところだが、維新後元老となって重きを成した井上馨に以下のエピソードがある。

維新後、客の一人が井上に質問する。
「あなたのような開明家がなぜ旧幕時代に攘夷家だったのですか?」
井上は苛立った調子で答えたという。
「あのときはああでなきゃならんかったんじゃ!」

🔘「君子豹変す」という言葉があるが幕末維新の長州人への褒め言葉として理解している。

🔘昨日ベランダに居ると初めて大型のLNGタンカーが大阪湾を西へ航行するのに出会した。
球形独立タンクを5基備える大型船で昨今のエネルギー事情のなかその根幹を担う船であり、見ていると他船に比べても航行スピードが早い。
LNGはマイナス162℃で液化して運搬し石油よりも比重が軽く輸送効率もよく二酸化炭素排出量が少ない。

【ガスタンカー 巨体奮(ふる)うて 秋の海】


明石海峡を越えて播磨灘から瀬戸内海へ去っていった。

毎朝のウオーキングと四国八十八ヶ所

神戸に引っ越し後、特に予定が入っていない日は朝、隣接する健康公園の外周2kmを歩き、午後はゴルフ場沿いの坂の道を約2km歩くのを日課にしている。

健康公園の管理事務所には四国八十八ヶ所の巡礼路の距離相当に応じたスタンプカードがあり歩いた距離に応じてカードにスタンプを押して自己申告するようになっている。

朝、健康公園で歩く度にスタンプを押しているが、昨日でスタンプカード一枚目をようやく終えた。
・1kmで1個の◯印

この地・健康公園から淡路島に渡りさらに鳴門の一番札所「霊山寺」迄すなわち巡礼のスタートに立つまで90kmが余計に必要でなかなか進まない。

一枚目のカードは霊山寺~二番・極楽寺~三番・金泉寺~四番・大日寺~五番・地蔵寺~六番・安楽寺~七番・十楽寺~八番・熊谷寺~九番・法輪寺~十番・切幡寺~十一番・藤井寺~十二番・焼山寺~十三番・大日寺

1枚目のカードは第十三番札所・大日寺で終わり、計208km(104日)を歩いたことになっている。
・終わった1枚目を管理事務所に見せて2枚目をもらった。

🔘ここまで来て分かったこと
・4番と13番札所は共に同名の大日寺(だいにちじ)である。これは多分、空海弘法大師の開かれた真言密教の本尊・大日如来から来ているのだろう。

・今まで先入観から各札所の間隔はほぼ同じくらい離れているのだろうと思っていたが、一番の霊山寺から二番の極楽寺まではたったの1kmで、十一番藤井寺から十二番焼山寺までは43kmもありひどくアンバランスなところがあることが分かった。これは実際の巡礼者は随分苦労されるだろうと思ってしまった。

🔘八十八ヶ所の総距離は1400km有るらしい。
その内たった十三ヶ所まで過ぎただけであり先が長い、とにかく頑張れるだけ何とか頑張ってみようと思っている。
それにしても1400kmは山道も多いはずで、歩き遍路の皆さんの労苦は並大抵でないことが身に染みる。

🔘昨日ふとみると公園のどんぐりが実を付け始めているのが分かった。マッチ棒の先くらいから1cm位までさまざまだがまだ緑色で熟すまで遠い。
9月1日、季節と月の朔日での出会いが殊更嬉しい。

【どんぐりが 背丈比べる 朔(さく)の朝】





「兵庫人国記」・山片蟠桃(やまがたばんとう)

黒部亨著「兵庫人国記」神戸新聞総合出版センター 刊を図書館から借り出し読んでいる。

著者は神戸市在住の作家で、近世以降の旧五ヶ国(但馬、丹波、摂津、播磨、淡路)の先賢の人物像をうかびあがらせ、「人物をとおして郷土の歴史を探る」ことがその目的だとあとがきに書かれている。

読み込んでいくなかに「独創を発揮した町人学者」として「山片蟠桃」が紹介されておりビックリしてしまった。
私は今までてっきり山片蟠桃は大阪人だと思っていたが、どうやら現在の兵庫県高砂市に当たる神爪(かづめ)村の出身らしい。

13歳で大阪堂島の山片家・升屋に丁稚奉公しており
私はこの事から当然出身は大阪だろうと先入観で考えていた。

升屋は大名貸しもする米商人で蟠桃の利発さに目を付け、その頃大阪商人が設立した学問所「懐徳堂(かいとくどう)」に入門させた。
ここで蟠桃は優秀な成績で実践の学問を身につける。

24歳で升屋の番頭に抜擢され、当主の死去に伴う相続問題や大名貸しの焦げ付き解消等を通じて主家の発展に貢献する。
その後学問の分野で本領を発揮、40年間学んだことや実践したこと、儒学蘭学天文学、財政経済学などを含み科学的合理主義の先駆となる著作「夢之代(ゆめのしろ)全十二巻」を著す。

本名は長谷川有躬(ありみ)だが58歳(1805)の時主家から永年の貢献を感謝され親類扱いで山片姓になる。
蟠桃は「番頭」をからとった号といわれる。

近年大阪府では日本文化の海外への紹介に貢献があった人に「山片蟠桃賞(大阪国際文化賞)」を贈って顕彰しているがこれは司馬遼太郎さんの提案が結実したものである。

司馬遼太郎さんには「山片蟠桃のこと」というエッセイがあり、私が山片蟠桃を初めて知ったのはこのエッセイに依る。
司馬さんは、合理主義者でありながら旧体制をも包含する実践家としての蟠桃の思想を暖かい眼差しで称賛している。

実業の場で実績をあげながら学問のような場でも成果を出す山片蟠桃のような生き方は、私には理想の生き方のように思えて憧れを抱く。

🔘施設の庭シリーズ あまりの形の良さに感心した。



厚狭毛利家代官所日記㊵元治元年(1864)④農兵の実態

8月11日のこのブログで、長州藩内は元治元年12月16日の高杉晋作の下関挙兵から正義派と俗論派との内戦に突入し、厚狭毛利家当主・能登が俗論派として諸隊追討総奉行兼先鋒隊総奉行を拝命、高齢のこともあって養嗣子・宣次郎が引き継いだこと迄を書いた。

この為この頃の代官所日記には当然ながら俗論派寄りの記述が中心である。(現代文に要約)

12月23日
「諸隊(奇兵隊など正義派)へ入隊したもの、入隊したが何月からか家に戻って来たもの、また他出しているものはその場所を含めて申し出るよう沙汰すること」

12月24日
「諸隊へ入隊したもの、途中で家に戻ったものを申し出るように沙汰したところ、下厚狭(郡、下津)梶浦、逢坂にはおらず船木市より以下二名の申し出があった。
・坂田音松 ~奇兵隊入隊帰宅せず
・薬屋藤兵衛三男東一~膺懲(ようちょう)隊入隊帰宅せず」

「宣次郎様は諸隊を鎮静するため明26日朝出陣して絵堂(えどう・地名)迄出向かれるので厚狭毛利領内の農兵は船木岡崎神社と厚狭朝陽館(厚狭毛利学館)へ揃って指揮を待つよう沙汰すること」

12月25日
「中間(ちゅうげん)を10人即刻萩へ送り出すよう指示があったので沙汰した」
「宣次郎様明26日萩を出立して明木(あきらぎ)絵堂辺りへ出陣されるので人数を早々に繰り出すよう又々萩より指示があったので農兵が集まっている場へ相談するように沙汰した」
「下厚狭(郡村、下津村、梶浦)農兵はいずれも気分相(体調不良)で(出陣の)断りを申し出た」

12月27日
「上厚狭(船木、逢坂村)農兵も体調不良で断りを申し出たので厚狭毛利家臣を出して厳重に沙汰したところいずれも岡崎神社に詰めているのでこの中から10人を萩へ送り出すことになった。(その代わり)10日間で交代するようにした」
「農兵10人を召し連れて今日より家臣1名が萩へ出張する」

🔘農兵のトラブルは年明けも続く、
・1月4日 出張した農兵の内、羽織の襟にビロードを掛けた者や白紐付きの小袴を着けた者があり不心得が咎められている。(農兵には武士身分とは異なる制約があったことが分かる)
・1月5日 農兵に病気の者が多いので交替要員が必要。
・1月8日 農兵がいずれも体調不良を申し立て厳重に取り調べた。

🔘厚狭毛利家は長州藩内戦で行き掛かり上、藩正規軍の指揮を受け持つことになり正義派諸隊と対峙することになったが、正規軍先鋒隊は各々の給領地の農兵を動員しなければ諸隊に対抗出来ないような実情にあったことが分かる。

農兵は元々外国船などの脅威から郷土を守るために武器を農民に与え訓練したことに始まるが、それが意に反し内戦に動員されることになり総じて従軍を嫌がりサボタージュ気味である。

そのうえ領内からは諸隊に応募している者も出ている。
志願者が中心の奇兵隊や諸隊にとても勝てるはずがない実態が日記に赤裸々に表れている。

処暑過ぎて 風がひかりが やわらかに】

🔘屋上庭園、よほど蜜が甘いと見えて蟻があちこちの花に出入りしている。