映画「博士の愛した数式」

NHKBSプレミアムシネマで放送された「博士の愛した数式」を録画再生で見終えた。
原作は本屋大賞に選ばれ当時のベストセラーになった作家・小川洋子さんの同名作品。

観始めて分かったが、この映画の監督は「雨あがる」「阿弥陀堂だより」など観る度に、観終わる度に、こころが少し軽くなる気がする映画を手掛け、黒澤明監督の弟子とも云える小泉堯史(こいずみたかし)氏だった。

小泉監督の常連とも云える俳優・寺尾聰(あきら)さんが天才数学博士役で主演、博士宅へ派遣される家政婦が深津絵里さん、その息子でルートとあだ名されるのが子役と、成人後の数学教師役として吉岡秀隆さん、博士を見守る義姉が浅丘ルリ子さんといった主な配役で、それぞれが上手くその役柄にはまっている印象があり、これも監督の手腕の一つかもしれない。

ネタバレになりそうなので簡潔に書くと、『事故で記憶に障害が残り80分しか記憶がもたない天才数学者と、家政婦とその息子の心の交流を、成人した息子ルートが懐かしく尊敬を込めて振り返る物語』だろうか。

このなかで色々な数学用語が、家政婦やルート君に向かって博士が説明する形で出て来て、それがこの物語に厚みを与え迫真的な効果を生んでいるような気がした。
素数
・ルート
・階乗
虚数
友愛数
無理数
etc

劇中の博士がルート君に語るセリフには考えさせられた。
「1とは何なのか難しい問題なんだ」

然し文系だろう小川洋子さんは、これらの数学的な素養とこれを物語に結びつけるアイデアをどのようにして獲得されたのか、こちらの方に非常に興味がある。
やはり作家を志す人は眼のつけどころが違うし、これらを深く理解する為きっと数学の勉強に励まれたに違いない。

◎先日購入した我が家のシクラメン
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台湾の想い出

コメダ珈琲店まで片道約4kmを歩いてモーニングセットを注文、「週刊新潮」を読み始めたがその中の書評コーナーに「味の台湾」という本が紹介されていた。

現地台湾の焦桐さんという著者の色々な懐かしい台湾の味が日本人翻訳者を経て紹介されているらしいが、この記事を見て、昨今多い台湾と隣国との軋轢のニュースの事もあって、少しの時間台湾の想い出が頭のなかを駆け巡る事になった。

台湾の歴史については日本統治時代、中国国民党専制時代など色々な想いもあり、特に第3代総統・李登輝氏の事はこのブログでも触れたことがある。

それはそうとして、私は前後10回程度は台湾を訪れたことがある。観光目的は一度もなく現役時代の全て仕事絡みで長いものは1~2ヶ月、短い場合は2~3日というところだろうか。

この間、本のように味に関する記憶はあまりないが小籠包(しょうろんぽう)が美味しかったこと、食事の味付けが日本人に合うと思ったこと、コーヒショップがとても少なくコーヒーが不味かったことくらいだろうか。

仕事の合間なので観光といえば
・中正(蒋介石初代総統)紀念堂〈衛兵の交代が見どころ〉
故宮博物館〈北京の故宮博物館より多い貴重な文物)〉
・急勾配のゴルフ場〈山登りかと思った〉位だろう。

台湾は約30年前に私が海外の仕事をするきっかけになった場所で、初めての海外渡航先でもあった。
かなりの場所でまだ日本語が通じ、その分のプレッシャーは感じなかったが、製品の販売先である現地での大きな品質問題の調査と対応という課題で、海外の仕事に慣れていない時分でもあり、販売先、生産工場を巻き込んだ処理は時間もかかりかなり苦労した記憶がある。

これがきっかけになり徐々に海外の仕事の比重が増えて否応なくのめり込むようになってくる。

台湾の首都・台北(たいぺい)の近くを流れる淡水(たんすい)河の対岸に当たる場所・林口(りんこう)地区に当時ライセンス生産をしていた工場があり、ここへは何度も指導で通った想い出の場所になる。

台湾の人々のバイタリティーは、現在の半導体や受託生産大手企業の世界的な活躍で日本でも広く知られているが、私が上海で働いていた折に接触した、中国本土に進出した台湾系中小企業を動かす人々も、その仕事に掛ける熱意は半端でないように感じた覚えがある。

中国本土で働いていたときは時折日本や日本人に対する敵意らしいものを感じることがあったが、台湾ではその種の事は全くなかったような気がする。

現在の台湾海峡は各国軍艦や軍用機が行き交い極めて波が高い状態だが、想い出の土地の一つである台湾がこの先も平穏であることを願っている。

◎歩きの途中で見かけた初めて見る小さな花、名前は?
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「鎌倉殿(かまくらどの)と執権(しっけん)北条氏」

坂井孝一著「鎌倉殿と執権北条氏」NHK新書刊 を読み終えた。
著者は日本中世史の専門家で以前、同著者の「承久の乱(じょうきゅうのらん)ーー真の武者の世を告げる大乱」を読んだことがある。
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私もこの本の「おわりに」で初めて知ったのだが、2022年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」という題で北条義時が主人公、その時代考証は著者が担当すると書いてある。

鎌倉殿とは鎌倉に幕府を開いた源頼朝を祖とする征夷大将軍の事で御家人(ごけにん)と呼ばれた武士達を従者とした主君になる。

この幕府を差配する最高機関が政所(まんどころ)で複数の政所別当(まんどころべっとう)がいるがその最上位が執権別当
であり通常は執権と呼ばれる。

この本は平家の流人(るにん)であった源氏の正統・源頼朝が挙兵して平家を滅ぼし鎌倉に幕府を開いて後に死去、その後京都朝廷と幕府が対立した承久の乱を経て執権・北条義時以後の北条家の権力が確立するまでが各種の史料をもとに記される。

それにしても頼朝が死して後、鎌倉幕府内の将軍職や執権がからむ争いは凄まじいものがある。
・2代将軍源頼家(頼朝の嫡男)は有力御家人の北条氏と比企(ひき)氏の対立に巻き込まれ幽閉、その後刺客に殺害される。これらは北条氏の主導と考えられる。

・3代将軍源実朝(頼朝の次男)は頼家の子・公暁(くぎょうではなくこうぎょうが正しい)に暗殺され源氏の正統は断絶、以後の名目上の将軍には京都の高級公家の子弟を迎える。

・北条氏に敵対した有力御家人、畠山(はたけやま)氏、和田氏などが討滅される等々

その後執権・北条義時の代に鎌倉時代初期の最大の内乱と云われる承久の乱が勃発する

承久の乱は今回の「鎌倉殿と執権北条氏」でもその最終章に位置付けられており、鎌倉幕府のターニングポイントとも言える事件で、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が北条義時討伐を指示したことを逆手にとって、義時を頂点とする東国武士団が西に向かい後鳥羽上皇の官軍を破り上皇隠岐へ配流して、朝廷を含む権力を幕府が一元的に手に入れた。

一般的に平家の時代は貴族社会の延長にあり、実質的に武士の世となったのは承久の乱以後といってもよいかもしれない。
日本史上東国が西国を制したはじめての事例と言える。

またこの乱の立役者は鎌倉幕府の初代将軍で亡くなった源頼朝の妻で北条義時の姉に当たり尼将軍と言われた北条政子(まさこ)である。
朝廷からの指示を受け動揺する武士団に、歴史に残る大演説を行いこれに反する事の正統性を説いて東国武士を結束させた。

この乱以後北条氏の執権職は世襲され鎌倉時代の実質的な支配者になる。
またこれ以後東国に地盤を置く御家人が、西国の3000箇所以上の地に新補地頭(しんぽじとう)として送り出されてその地に根付いて室町・安土桃山・江戸時代を生き抜くことになる。
安芸国(広島県)に土着した毛利氏はその一例である。

◎近くの小学校のフェンスから覗く小さく赤いバラ
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厚狭毛利家代官所日記⑳文久2年②洞玄寺の盗人のその後

11月16日のブログの続き

正月5日
☆盗人宇三郎を厳重に取り調べた結果以下を白状した。
・仏具は盗んでいない。
・米は少しずつ盗んで、下津の孫吉を頼んで両人で厚狭市へ持参売り払った。
・米の他に古布団も1枚盗んで厚狭市で売りさばいた。
☆孫吉も究明したが宇三郎と同様の供述だった。
☆宇三郎は縛り付けて隣部落へ預けた。
☆孫吉も縛り付けて下津の百姓組に預けた。
出張の面々が以上のことを報告した。

正月8日
☆盗人宇三郎は昨年末下関に行ったと云うので、下関で仏具を始末したのではないかを聞き込む為、今日から目明し清太郎を派遣する。

正月13日
☆下津村孫吉は近くの七日町(なのかまち・長府藩領)より養子に来たもので、その際の書類が代官所には来ておらず、その事からも七日町へ百姓組を通じて本人を送り返す。
孫吉が売った分の代銀は孫吉に弁償させる。この事を下津村庄屋より七日町庄屋へ伝えるよう指示した。

2月7日
☆孫吉の件、色々と経過があったが今日身柄を引き渡し。

2月20日
☆孫吉責任の米2俵、先方の庄屋より経費を除いて差し出すよう代官所の下役に指示した。

2月27日
☆孫吉責任の米2俵を受け取り、相互にこれで関わりが無いことを書面で届けた。

3月12日
☆宇三郎が厚狭市で売った分は本人が返済出来ないので、厚狭市の庄屋へ目明しから頼んだところ厚狭市から代銀を返すとの事になった。

3月17日
☆宇三郎の出生は長府藩河内村(おおかわちむら・現在下関市)で、出生のところへ送り付けの指示をしたが、足痛で立つことが出来ずカゴで目明しを付けて送り出した。先方はとやかく拒んだがそのまま置いて帰ってきたと届けがあった。

4月13日
☆下津村孫吉の跡は「つぶれ家」となった。前年からの年貢借り米など残り7石一斗と少しの負債分は村の負担にして上納させることにしたが、暮らしが難儀の村なので5ヶ年元利を留めてこの間に上納するようにした。

◎以後はこの件に関する記述は見当たらず、これで落着のようだが、当時の暮らしの厳しさが垣間見える。
また不祥事を起こした場合、村役人や百姓組などに累が及ぶ連帯責任を基本にした当時の統制の仕組みが分かる。

また人権についても当時と現在では大きな隔たりがあり、自業自得とはいえ盗人両人の送り返された村でのその後の悲惨さが容易に想像される。

◎仏具の紛失(盗難?)は結局解決出来なかったようである。

◎歩きの途中、少し離れたところから撮ったものだがあまり見たことがない変わった形の花。

「70歳のたしなみ」

板東真理子著「70歳のたしなみ」小学舘刊 を読み終えた。
近くの図書館の「今なら読めるベストセラー」と表示されたコーナーに置かれていたのを、たまたま手に取ったのは自分が70歳を越えていることと無縁ではない。
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(「今なら読めるベストセラー」はしばらく前まで予約が多かったベストセラー本で、時間が経過した今なら予約もなく借りだし出来る本の事)

本の表紙の裏にはこう書かれている。
「人生70年時代の先入観のまま、晩年として生きるのはあまりにももったいない。人生100年時代をポジティブに生きるヒントは〈たしなみ〉にある。」

またあとがきにもこうある。
「社会はもっと高齢者を大切にすべきだと要求するより、自分たちは社会や若い世代に何ができるか、考えなければならないのではないかと思います。それは大それたことではなく、まずは普段の生活の中に〈美しい〉〈面白い〉〈素敵だな〉と思うことを見つけ感動する。上機嫌で過ごすようにする、今まで生きてこられたこと、支えてくれた人たちに感謝するといったことです。こうした心がけこそ高齢者のたしなみです。」

さらにはこの本のキーワードが表紙に色々書かれている。
・自分の人生を肯定する
・今日が一番若い日
・孤独を楽しむ
・目指せ中流老人
・人は人、自分は自分 etc

自分が70歳を超えてみて考えることは色々雑多にある。

・自分が若いときに70歳の人を見ると「年寄りだなぁ」と思ったが、今の自分にはあまりその感覚が無いように思うが、果たして世間とのギャップはどうなのか?
・衰退期と言われ更に重い債務を抱えた日本はこれからどう打開するのだろう?
・これから衰えるだろう頭と身体の健康維持をどうする?その前提での生活をどうしていくべきか?
・年齢と共に増えてきたゴルフのミスをどうしたら少なくできだろうか?
etc、
なかなか答えが出せないことだらけではないか。

◎この本に書かれている通りに日々を送ることはなかなか難しいが、自分なりに年相応の「自分は自分」を見い出していこうと思っている。

◎今日でこのブログも節目の900回にたどり着いた、次の節目迄行けるだろうか?

◎我が家の裏、いつも素振りをする場所のネットに顔を出す小菊。
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厚狭毛利家代官所日記⑲文久2年①洞玄寺の盗人①

厚狭毛利家の文久2年(1862)の民政記録、正月4日の分を現代文に直す。

厚狭下津(しもづ)地区にある曹洞宗・洞玄寺(とうげんじ)は厚狭毛利家の歴代当主の墓もある菩提寺であり、このブログでも何度か取りあげた事がある。
昨年帰省時に撮った現在の洞玄寺

正月4日の日記から

洞玄寺より昨年12月25日の夜、御位牌前の香炉(こうろ)、花瓶、燭台、観音尊像(11面黄金仏との申伝え)、花模様の幔幕(まんまく)、の紛失について申し出があった、過日26日より方々へ尋ねたが未だに分かっていない。

このようなところに、大みそかの夜、寺禅堂内のわらゴミがあるところで、その中からこそこそ物音がするので、中間(ちゅうげん・召し使い)が灯火を持って見ても格別の様子もなかったが、何とも不審に思い天秤棒を持ってそこここを突いたところゴミの中から「やれ助けて私は米の他は盗んでいない」というその声は、昨年12月に洞玄寺に居たことのある宇三郎という者。

「その方はなぜここに居る」と穿鑿(せんさく)したところ、「追々寺の米を三俵と七枡(ます)盗み、厚狭市で売りさばき下関へ行ったところ、足を痛めてしまい、どこか別のところへも行きかけたものの痛みが強くなり行かれず、洞玄寺に帰れば痛みがなくなるのではと26日の夜帰って来ました。
然しその夜から痛みが強くなり立つこともできず食事もしていない。」
と申し出たとのことである。

その内夜が明けたので、隣部落の年寄り(村役人)に預りを申し付けたところ(当人の)足が立たないので筵(むしろ)に乗せて連れ帰ったと洞玄寺より申し出があった。

然し正月松の内はそのままにして今日から壺井権衛門(庄屋)
宅に於いて、西岡作兵衛(厚狭毛利家奉行所勤番)と配下3名を出張させ究明を指示した。

◎時代劇のような話でここまでで字数を費やしたが、この後この事件については4月13日付けの最終まで少しずつ全8回の記録があり次回にまとめて経過を書く。

◎今日の野菜の収穫分、夏の間収穫したナスとピーマンだが今でも不思議なほど息長く収穫出来ている。



まだ秋ナスの花が咲き続けている。

東芝の3分割報道のことなど

先日いつものメンバーとホームコースでゴルフをした際、昼休憩時にそのうちの一人から東芝が3分割されることについて尋ねられた。私が同じ電機産業で働いていたのを知った上での問いである。

東芝原子力事業の失敗や色々な不祥事で上場廃止迄云われるようになっていたが、ここに来て2023年度にグループ全体を3つの会社に分割して脱総合電機で再生を図ることを発表している。

一つはインフラ関係の会社で設備投資は比較的少ないがビジネスサイクルが長期にわたる事業。
二つ目がデバイス半導体関連の事業で設備投資が巨額に必要でビジネスサイクルが短期の事業。
三つ目は資産管理会社として子会社などを管理する。

当然ながら長い間名門企業・東芝の看板であった民生機器や家電などはどこにもない。

聞かれた事について、私はこの動きを好意的に解説したが、その一番の理由は色々な事業を多角的にしていると、どうしても投資などの判断が後手にまわってしまうし、集中した会社に比べ生存競争に遅れを取る事になってしまうことにある。

総合企業、複合企業は一部が悪化しても他で補えるメリットはあるがその分ここぞの時の集中が出来ないデメリットがあると思うのが実感であり、世界企業の中でも電機のGE、化学のダウ・デユポン、ジョンソン&ジョンソンなどに同様の分割の動きがある。

日本の低成長という悪環境のなかで世界的な脱炭素に向けた大変革が加わり、更に色々な企業の生き残りへ向けた動きが間近に迫っているのだろう。

今の日本はどう見ても誰かの言葉を借りると衰退期にあるとしか思えないが、私自身はこの原因が全て少子高齢化のせいとは思っていない。
これを脱けるには何かのきっかけが必要でありそのきっかけを考え抜く必要がある。
たぶんそれを先行して実行出来るのは大小の企業活動しかないと思える。

◎我が家のガレージ脇に植えているベゴニア
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