厚狭毛利家代官所日記⑳文久2年②洞玄寺の盗人のその後

11月16日のブログの続き

正月5日
☆盗人宇三郎を厳重に取り調べた結果以下を白状した。
・仏具は盗んでいない。
・米は少しずつ盗んで、下津の孫吉を頼んで両人で厚狭市へ持参売り払った。
・米の他に古布団も1枚盗んで厚狭市で売りさばいた。
☆孫吉も究明したが宇三郎と同様の供述だった。
☆宇三郎は縛り付けて隣部落へ預けた。
☆孫吉も縛り付けて下津の百姓組に預けた。
出張の面々が以上のことを報告した。

正月8日
☆盗人宇三郎は昨年末下関に行ったと云うので、下関で仏具を始末したのではないかを聞き込む為、今日から目明し清太郎を派遣する。

正月13日
☆下津村孫吉は近くの七日町(なのかまち・長府藩領)より養子に来たもので、その際の書類が代官所には来ておらず、その事からも七日町へ百姓組を通じて本人を送り返す。
孫吉が売った分の代銀は孫吉に弁償させる。この事を下津村庄屋より七日町庄屋へ伝えるよう指示した。

2月7日
☆孫吉の件、色々と経過があったが今日身柄を引き渡し。

2月20日
☆孫吉責任の米2俵、先方の庄屋より経費を除いて差し出すよう代官所の下役に指示した。

2月27日
☆孫吉責任の米2俵を受け取り、相互にこれで関わりが無いことを書面で届けた。

3月12日
☆宇三郎が厚狭市で売った分は本人が返済出来ないので、厚狭市の庄屋へ目明しから頼んだところ厚狭市から代銀を返すとの事になった。

3月17日
☆宇三郎の出生は長府藩河内村(おおかわちむら・現在下関市)で、出生のところへ送り付けの指示をしたが、足痛で立つことが出来ずカゴで目明しを付けて送り出した。先方はとやかく拒んだがそのまま置いて帰ってきたと届けがあった。

4月13日
☆下津村孫吉の跡は「つぶれ家」となった。前年からの年貢借り米など残り7石一斗と少しの負債分は村の負担にして上納させることにしたが、暮らしが難儀の村なので5ヶ年元利を留めてこの間に上納するようにした。

◎以後はこの件に関する記述は見当たらず、これで落着のようだが、当時の暮らしの厳しさが垣間見える。
また不祥事を起こした場合、村役人や百姓組などに累が及ぶ連帯責任を基本にした当時の統制の仕組みが分かる。

また人権についても当時と現在では大きな隔たりがあり、自業自得とはいえ盗人両人の送り返された村でのその後の悲惨さが容易に想像される。

◎仏具の紛失(盗難?)は結局解決出来なかったようである。

◎歩きの途中、少し離れたところから撮ったものだがあまり見たことがない変わった形の花。