中島敦「山月記(さんげつき)」

4月7日のこのブログに作家・中島敦の代表作「李陵(りりょう)」のことを書いた。
昭和17年(1942)33歳で夭逝(ようせい)した中島敦は当然ながら寡作(かさく)であるが、世の中の評価は「李陵」と「山月記」を以て双璧としている感がある。

「李陵」のことを書いたからには何れ「山月記」も読んでみなければと思っていたが、ぎっくり腰で身動きが制限されるなか全集を再び手に取りこの機会に2回読み返した。

山月記」は「李陵」と同じく中国の古い時代に材を得たものでそのあらすじは

【唐の時代、李徵(りちょう)という博学の才人が居り、若くして科挙(かきょ・中国の超難関官吏登用試験)に合格、地方官になった。しかし人と和合せず自尊心が厚いため下吏に甘んずる事が出来ず、官を辞してひたすら詩作に没頭、名を後世に遺そうとした。

文名は揚がらず、妻子の衣食のため節を屈して一地方官に復職するが、自尊心が傷つき公用で旅に出た折り発狂、闇の中に駆け出し帰らなかった。

翌年、袁惨(えんさん)という官僚が勅命(ちょくめい・皇帝の命令)で地方に派遣された折り、その地方に出没する人喰い虎に出会う。
そこで虎の呟きを聞いた袁惨は「我が友・李徵ではないか?」と呼び掛ける。

これに応えた李徵は出奔後虎に変じた経緯を語り、1日の内まだ数時間は人間の心が戻り残虐な行いを振り返り情けなくなるが、その時間も次第に短くなって来た。
自分が生涯に執着したものを、一部たりとも後世に伝えないでは死んでも死にきれないと、虎は自作の詩を声を挙げて詠みあげる。

また自分がこうなったのは臆病な自尊心と羞恥心のゆえで、世と離れ人と遠ざかることで、内なる猛獣を肥え太らせてしまったと悔やむ。
虎の心に戻る別れの時、妻子の事を友に頼み草むらに消える。
虎は一度再び道に躍り出て、月を仰いで二声三声咆哮したかと思うと再び草むらに躍り入り姿を見せなかった。】

☆外せない部分が多く、あらすじが長くなってしまった。
この小説が主題にしているのではないかと思われる〈人間誰もが持つ内なる猛獣〉というのが非常な説得力を以て迫って来る。

作家・中島敦の代表作と言われるのがよく理解できた。

◎近くの団地の蔭に咲くこの花は、葉の形などからドクダミと思われる。子供の頃、葉が傷薬として使われていた。
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やってしまったぎっくり腰

◎またまた注意不足でぎっくり腰をやってしまった。
ゴルフで疲れているにもかかわらず、長く歩いて歯医者に行き帰宅、天気予報で雨が近い事を聞いたのでその前に畑の夏野菜に追肥しようと段取り、中腰になった途端にグキツと来てしまった。

前回より少し軽い気がするがやはり痛い!取り敢えず何とか医者に行き注射をしてもらった。

それにしても我ながら過去の反省が活きていないのが情けない。ゴルフと運動と畑仕事を連続してするのは過去の失敗で懲りていた筈だが、目先を急いで全く忘れてしまっていた。

目前のスケジュールでは、2つの難題が控えており悩ましい。
・ジャガイモの収穫
・地域のゴルフコンペ

◎下宿中の孫の関係で娘が日帰りで帰省してきた。
お土産にもらったのが大正期の画家や詩人で有名な竹久夢二の名前がついた和菓子。
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竹久夢二はその美人画などからてっきり東京生まれと思っていたが岡山生まれであることをこれで初めて知った。

生家のある岡山県瀬戸内市の和菓子屋さんの製品、竹久夢二の絵は世間でもてはやされるほど良いとは個人的には思っていないが、菓子は菓子で別になる。
2種類あり、いんげん豆の白あんとそれにイチゴが練り込まれてあるもの。
コーヒーと一緒に一個づつ味わった。白あんとイチゴ共に美味しい。

帰省した娘の前でぎっくり腰をして心配を掛けてしまった。二重の反省です。

◎図鑑からこれはムラサキツメクサのような気がするが?
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長州藩民政の固有の言葉

昨日はふるさとを領地とした厚狭毛利家の記録「代官所日記」の一回目を書いたが、同様な長州藩の史料などを見ると他藩にない、長州藩独自の名称が頻繁に出てくる。その中の言葉を気付いた時点で順次書き留めたい。

①宰判(さいばん)
長州・萩藩では藩内を18の行政区に分けて統治し宰判と呼びそれぞれを代官が統治した。
明治維新後政府の要職を占めた長州閥が裁判所の発足に当たりその語源に用いたとされる。

厚狭毛利家の領地の内、厚狭地域は吉田宰判、船木地域は船木宰判の管轄となる。

各宰判を統括する代官は平常は萩の郡(こおり)奉行所に出勤、春・秋の40日間と冬10日間は各々の代官所(勘場)に出張した。

宰とは取り仕切る、つかさどる。
判とは別つの意味。

②勘場(かんば)
宰判や厚狭毛利家等の大規模給領主毎に設けられた地方役所で代官以下、勘定方、寺社方、山方、普請方などの役人が出勤し地下(じげ)役人や手子(てこ)と呼ばれる助手役と共に民政全般を管轄する場所になる。

勘とは考える、調べる、罪をただすの意味

③畔頭(くろがしら)
庄屋の下に置かれて、一村を数組に分けその組・集落の長となる。庄屋の相談役でその組の年貢、戸籍等の住民生活全般に責任をもった。

畔(くろ)とは「あぜ」とも呼ばれ田と田の間の少し高くなった境界のこと。

「明治二年の一揆」と呼ばれる、戊辰戦争後の諸隊脱退騒動とも絡んでふるさと厚狭地方をも巻き込んだ大一揆は、美祢宰判・岩永村の畔頭が、年貢の収納に規定以外の枡を使ったことで農民の不満が爆発、年貢の減額、役人の罷免などを要求した事が発端で大規模化した。

この事からも村落の現場に於ける畔頭の重要性が良く分かる。

☆☆何れの独自の名称も、良くその内容や役割を的確に表現しており、長州藩は全国各藩の中でも書類や史料が整備されている指折りの藩であることを裏付けている気がする。

◎昨日はホームコースのメンバー4人で大阪富田林市内のゴルフ場でコロナ対応ゴルフへ、梅雨の晴れ間の幸運に恵まれた。
スコアーは45、45、トータル90で目標1打オーバーで残念。
ゴルフ場から見る金剛山

ゴルフ場から見る二上山

厚狭毛利家代官所日記①天保6年

長州藩・萩毛利家の一門家臣・厚狭毛利家の領地は江戸時代を通じて厚狭の郡(こおり)村、山川(やまかわ)村、船木の舟木市(ふなきいち)村、逢坂(あいさか)村と現在は萩市の一部になっている高佐(たかさ)村でありそれぞれの村に家臣が居住していた。

領地の統治を主管するのは郡村の厚狭毛利家居館の敷地にあった勘場(かんば)で代官以下の役人が地下(じげ)の役人を指揮して農業振興、治山、治水、救恤(きゅうじゅつ・困っている領民を助け恵む)、賞罰、検見(けみ・作物の出来を実地に見て年貢を決める)徴税等の仕事を行っていた。
・山陽町教育委員会発行「山陽史話一」掲載の厚狭毛利家居館の図、本門の右手塀に沿った長屋が勘場、道を隔てた斜め向かい側が撃剣場や兵練場になる。

・昨年撮った厚狭毛利家居館跡、白い標柱がある。

地下役人は大庄屋が厚狭(下厚狭と呼ぶ)と舟木(上厚狭と呼ぶ)に1人ずつ、その下に庄屋と畔頭(くろがしら・庄屋の補佐役)がいた。
例えば厚狭は郡、下津、梶浦、に分けてそれぞれを庄屋が1人ずつ任命され、それを3庄屋毎に存内(ぞんない)と呼んだ。
地下役人達も必要に応じて勘場に出向く。

この厚狭毛利家勘場に於ける日々の出来事を書いた日誌「代官所日記」が残されておりその一部は厚狭図書館から刊行されている。
・刊行分の一部

専門家ではないが読める範囲で読み進み、逐次気になる箇所や面白い箇所をピックアップしてみる。

なにぶん刊行分も完全とは言えず、旧漢字旧カナ混じり文で虫喰い箇所や意味不明のところもあるが、自分の勉強も兼ねて読んでいく事にした。

天保6年(1835)
2月23日分
・広瀬村百姓・善五郎の居宅より出火、弟の居宅や長屋を焼失。関係者を呼んで究明したところ自火に相違無く、過去の例の通り本人を追込(おいこみ、おしこめ)処分に沙汰した。
検使役、代官、他役人2名、地下役人が現場に出張。

3月10日分
・百姓次左衛門はわがままの振る舞い多く、地下役人、親類、組内(百姓仲間)の言うことも聞かないので、代官所に呼び出し申し聞かせ、忙しい折りの厄害として追込処分。
但し7日後の十七日赦免の沙汰が出されている。

ーーーこの時代、比較的軽い刑罰として追込があり特定の部屋に入れて出入りを禁ずる。現代の禁錮刑のようなものと考えられ一定期間を過ぎると赦免される。
現代ではモラルの範疇(はんちゅう)に入ることも刑罰の対象になっている事が分かる。

◎我が家のニワフジ

映画「わが谷は緑なりき」

NHKBSのプレミアムシネマでまたまた良い映画を観てしまった。題名は「わが谷は緑なりき」でアカデミー作品賞などを受賞している。
監督がジョン・フオード、女優の一人がモーリン・オハラと出た時点でジョン・ウエインが出てくるような古典的な西部劇を予測したが全く違った。

物語は19世紀末、イギリスのウエールズ地方の緑多い谷間に開かれた炭鉱で働く信仰深く誠実で勤勉な大家族一家と、この炭鉱町の変遷を家族の末っ子の目を通して描かれる。映画の冒頭は初老になったこの末っ子が母の形見のショールに小さな荷物を包み、この町を出るところから始まる。

長兄の結婚、姉の恋愛、自分の学業等のエピソードを交えながら炭鉱特有の労働争議、落盤事故などが続き街の環境が緑から黒く変わっていくなかで人心が荒廃した部分も出始める。

長兄を事故で失い周囲から学業優秀で将来を期待されるが、自らは父や5人の兄と同じ炭鉱夫を選択して働き始める。

兄達が炭鉱を解雇され新天地アメリカなどに出ていくなか、父と共に炭鉱で働き続けるもその父親も落盤事故で亡くなる。
父を見習い炭鉱で誠実に働き続けた末っ子も初老を迎え、緑を無くした町を想い出を携えて出ていく。

映画を観ながら二つの事を考えた、以下余談ながら。

①元々ウエールズは13世紀にイングランドに征服された歴史があり、連合王国・イギリスを構成する4つの国(イングランドスコットランドウエールズ北アイルランド)の一つで英国王室(イングランド王家)の皇太子は歴代プリンスオブウエールズの称号を与えられている。

アメリカ合衆国はこのようなイギリス各地方からの移民によって建国されている

第二次大戦当時シンガポールを基地にするイギリス東洋艦隊の旗艦は、この皇太子の称号を持つ戦艦・プリンスオブウエールズ日本航空部隊は真珠湾で米軍に攻撃をかけるほぼ同時期にこの戦艦と巡洋戦艦・レパルスを撃沈、イギリス首相・チャーチルを嘆かせた。

②以前このブログにも書いたが、私のふるさと厚狭を含む山口県西部と北九州域は日本有数の石炭の産地で、私の若い頃昭和時代の新聞には、落盤、炭塵爆発、出水等の事故、更には石炭から石油へのエネルギー転換から来る人員整理と閉山、労働争議などが毎日のように載っていた。

国は違っていても石炭産業で生きた人々や地方には、国の発展に大きく貢献した日々と、その後の苦しい時代がともに確かにあった。

◎近くの自衛隊駐屯地のフェンス近くの野草
ヒルガオだろうか、蜂が蜜を採りに。
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「お帰りモネ」清原果耶さんと天気予報

NHK朝の連続TV小説が、コテコテの関西もの「おちょやん」から東北・宮城を舞台にした「お帰りモネ」にバトンタッチし何か雰囲気も朝ドラの王道に戻ったような気がしている。

気仙沼で震災を経験した主人公が、「誰かの役に立ちたい」という自分探しの中で「気象予報士」を目指す物語らしい。

朝ドラらしく脇役陣も豪華でそれぞれの特長が生かされており、ナレーションが竹下景子さんというのもとても良い。録画しておいて夕方ストレッチ体操をしながら観るのが習慣になっている。

この番組が始まって私が楽しみにしているのがふたつある。

ひとつ目が主人公・永浦百音(ももね)を演じる清原果耶さんの演技である。
清原さんは何度か朝ドラで見かけたことがあるが、私が一番感動したのは2019、10、1のこのブログ「高校生女優・清原果耶さん」で既に書いているように、NHKBS時代劇「蛍草・菜々の剣」で見せた、摺り足であの剣を肩に掛けるようにして扱う演技は真に迫って今でも記憶にあり素晴らしいものだった。

この頃から清原さんはNHKの朝ドラで主演すると確信していたが、意外に早くそれが実現した事に少々驚いている。
このドラマを通じて更に成長されるような予感がしている。

もう一つが主人公が目指す気象予報士の出す天気予報のことである。
私の楽しみの一つがゴルフで、屋外競技の典型的なものになるが、この年齢になってくると余程でないと雨天決行はあり得ず雨天順延又は中止を原則にしている。

その為予定日の一週間前くらいからスマホで予報を見ておく事が多くなり、いつも気象庁、気象協会、民間予報会社の予報を並行して確認するが、私の感覚では予報の精度が会社の存続や収益に直結する民間最大の予報会社「ウエザーニュース」の精度が最も高いような気がしている。

専門家では無いので現在の予報システムがどうなっているのか詳細は分からないが、少なくとも1週間前の段階では各機関の間では相当なバラツキがありそれが何に由来するものかとても興味がある。

多分、温度、湿度、風向風速、気圧等の各地のデータ(2次元)を地表からの高さ(3次元)を異なって取り、それを時間経過(4次元)のデータを入れて、コンピューター解析しているのだろう。気象予報にスーパーコンピューターが必要というのも良く分かる気がする。

何れにせよ「お帰りモネ」の中でこれらの最新予報システムを勉強出来れば一石二鳥、一挙両得になるのだが甘い考えだろうか。

◎庭のサツキが花盛り
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長門国守護・厚東(ことう)氏

先日このブログでふるさと厚狭の「寝太郎物語」について3回に分けて書いたが、「寝太郎とは何者なのか?」の答えを私なりに「厚東氏」との関わりで推定した。

この為今一度厚東氏のことを調べ直したいと思い色々当たって見たが、毛利氏、大内氏等に比べて関連史料が驚くほど少ない事が今更ながら良く分かった。

やはり厚東氏に関しては以前大阪梅田の古本屋で見つけ購入していた、川副博著 「長門国守護 厚東氏の研究及び史料」風間書房刊 が随一でこれを機会に特に厚狭との関わりに留意して読み直してみた。

著者は山口大学の教授を勤められた関係で、厚東氏を調査研究されるようになったらしく、かつて厚東氏の本拠地であった山口県宇部市厚東の郷土史研究会等の協力も得て、とりまとめられたと序言に書かれている。

結論的には寝太郎物語のような治世、民政に関わる内容は殆ど無く比較的史料の残る、合戦興亡、寺社由来が多くを占め当初の目的には遠いが、その中で興味を覚えた内容は以下の通りであった。

①厚東氏は物部(もののべ)氏の出自で、蘇我馬子(そがのうまこ)と戦って破れた物部守屋(もりや)を始祖にしている。私が今住んでいる八尾市一帯は物部一族の本拠地であった処で守屋の墓もあり何かのゆかりを感じる。

②厚東氏の本拠地・長門国厚狭郡の宇部(うべ)は海辺(うみべ)から来ていると考えられ、厚東川下流辺りで相当の船舶によって他と交通し、富と文化が異国を含めてもたらされたとも考えられる。

③以前のこのブログに書いたことがあるが、天平宝字8年(765)厚東氏4代武綱は海の神・九州宗像大神宮を厚狭郡内万倉(現宇部市万倉宗方)に勧請した。

④記録によると厚東氏が南朝(後醍醐天皇)方に応じた際、
長門国のアサ(厚狭)やアツ(厚保)など近隣の豪族を同道している。

建武新政建武元年(1334)厚東氏は長門国守護に補せられ守護所を府中(現在の下関市長府)に置いた。
(厚狭は厚東氏の本拠厚東と府中との中間に位置する。)

⑥同年長門国守護・厚東武実(たけざね)は厚狭山野井の松嶽山正法寺(まつたけさんしょうほうじ)が訴えた地頭による寺領の乱妨(横領)を、寺の訴えを認めて停止させる文書を発行している。

南北朝の争いの中で周防(すおう)国を統一した大内氏と厚東氏は衝突を繰り返し、正平18年北朝は厚東氏から長門国守護職をはく奪、大内氏に与えた。これにより厚東氏は敵方南朝に応じるが南朝の衰退と共に厚東氏の政治勢力も失われていく。
(この頃日本中の武士が敵、味方の転変を繰り返す)

☆厚東氏が厚狭を含む一帯を勢力下においていたことは間違いなく、交易などによる財力も有ったと考えられ、「寝太郎灌漑事業」の状況証拠には成り得るが、残念ながら直接証拠には至らない。

🔘山口県地方史学会発行の長門国守護・厚東氏発給文書集

◎野生化しているので図鑑によるとオランダカイウだと思われる。



◎厚東氏の研究及び史料