500日・500話にたどり着いた

この日記ブログを2019年3月22日から書き始めて、とうとう所期の目標500日、500話に今日到達した。
読んで頂いている皆様の励ましで何とか途切れず継続出来たことに心から感謝します。

はてなブログ」のことがインターネット上で簡単に始められるブログソフトとして紹介されているのを見て、60歳台最後の年のチャレンジと思いつつ書き始めたことになる。

元々歴史が好きでふるさと山口県厚狭(現在山陽小野田市厚狭)の歴史に興味を持って関連の古い書籍や史料を集めたりしていたので、これらの整理の意味でもちょうど良いと考えてスタートした。
その為ブログ記事の第一回が「厚狭毛利家①厚狭毛利の減知」という、ブログを読む側の人にとって、何のことか分からないような題になってしまった。

今は折角書くのだから出来れば一人でも多くの人に読んで貰えたら嬉しい気持ちになっているが、始めた頃は自分の考えを整理するために書いて置くつもりで、読んで貰うことはあまり気にしなかったように思う。

ここまで来てふるさとの歴史についての事や、私の経験してきた事など、かなりの量を書き溜めることが出来たので、これをまとめてどう活用していくかを、少し考え始めている。

この節目以降は一日一話に拘らず、随時思いついた時に書き残す様にしていきたいと思っているので、読んで頂いている皆様、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

◎昨日は梅雨明けで今年一番の暑さの中、何時もの同世代メンバーとホームコースで耐久力勝負のゴルフ。
午前中は日陰では涼しい風も時折あり問題なかったが、午後はまだ体が酷暑に慣れておらず特に後半へとへとの大叩き、 もう少し体力の蓄えが必要と身に沁みた。
スコアは44、50、トータル94、目標大幅未達

何時も行っているホームコースなのだが今日初めてコースの職員の方に、コース内の不思議な驚きの木を教えられた。
桜の木が棕梠(シュロ)の大木に巻き付き、違う2本の木がまるで1本の木のように成長している。

中央が棕梠の木、左右が桜の木
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桜の枝や根が棕梠に巻き付いている
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全体像
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李登輝氏の訃報

数日前より容体の悪化が伝えられていた台湾の元総統・李登輝氏が亡くなられたとの報道に接している。

あまり政治的なことには関わりを持たないが、外国人のなかで尊敬する人物の一人だった。
当時の京都帝国大学の出身との事だが、日本の歴史や文化にも造詣が深く、例えば作家司馬遼太郎さん等とも親交があり対談を読むと、長く外来政権に支配された事を「台湾人の悲哀」と表現し、深い知性を感じさせる人だったと思う。

戦後、中国本土で蒋介石の国民党と、毛沢東共産党が内戦を戦い、敗れた国民党が、台湾に逃れて政府を作り、国民党由来の本土出身者が要職を占める時代が長く続いたが、台湾出身者で初めて副総統から総統になった。

此れには蒋介石の子息で後継者蒋経国氏の英断があったと言われ、自らの後継に反対を押しきって、台湾出身者の李登輝氏を指名してその後の総統民選化や民主化への道を開いたが、主権在民の思想を台湾に根付かせ、今の台湾の基礎を作ったのは李登輝氏の功績と言えるだろう。

私も現役時代、首都台北の西側、林口地区の家電工場を中心に仕事で何度も台湾を訪れ、故宮博物院中正紀念堂等の見学と共に飲茶なども美味しく頂いたが、何より訪れる度に街中でピリピリとしたところが少なくなり穏やかに変わっていく印象があった。

今、台湾は中国本土との関係など厳しい局面を迎えるなかで、ひとつの精神的支柱を失ったとも言えるかも知れない。
個人的にもとても残念でならない。

◎ナスの花、インターネット先生に教わり雌しべと雄しべの状態で肥料の効き具合がわかる様になってきた。今年は去年以上の収穫を目指している。
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明治のふるさと厚狭①厚狭駅の開業と日本海海戦

昭和懐メロの定番のひとつに「ああ上野駅」という井沢八郎さんが唄った歌があり「♪上野はおいらのこころの駅だ♪」と唄われるが、私にとってのこころの駅は山陽本線厚狭駅になるだろう、帰省の度にここに降り立つ。
現在の厚狭駅
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明治時代になると新橋~横浜の開業から始まり国策としての鉄道敷設が、官営民営が併存する形で広く進められた。

民営の山陽鉄道による神戸~赤間関(下関)間についても神戸から順に敷設工事が進み、明治33年(1900)12月3日に三田尻(現在防府駅)~厚狭間が開通し同時に厚狭駅が当時の終着駅として開業した。

この時同時に開業したのは厚狭から東へ小野田駅、船木駅(
後に厚東駅と改称)など。

その後明治34年(1901)厚狭から馬関(下関)駅間が敷設開業し厚狭の次は埴生駅で厚狭は途中駅となった。

明治38年(1905)厚狭から山陽鉄道の支線となる美祢の大嶺駅まで大嶺線(現在の美祢線)が開業した。

また明治43年(1910)には船木駅(厚東駅)と小野田駅間に宇部駅(後に西宇部更に宇部に)が開業した。

厚狭駅は江戸時代から厚狭市(あさいち)と呼ばれていた厚狭本町周辺を避けて、それより大きく西へ移動した千町ヶ原(ちまちがはら)の沖田(おきだ)と呼ばれた水田地帯に設けられた。
この為町の賑わいが旧市街の本町筋から新しく西に出来た千町筋に移ることになる。

明治初期、厚狭郡役所は厚狭の東隣の宿場町船木市(ふなきいち)に置かれており、駅はこの船木市を通る筈だったという説があるが、厚狭駅と同時に開業した小野田駅の位置を考えると、鉄道は明らかに今後の産業振興を考え海岸に近い宇部小野田を目指して迂回しておりこの場合、次の駅は船木市でなく厚狭市が必然だったと私は考えている。

この結果、船木にあった毛利勅子女史(3月12日のこの日記参照)創立の高等女学校が船木から厚狭に移転するなど、郡の中心が船木から厚狭に徐々に移転することになり両地域の対立の火種となった。

2019年6月4日のこの日記に「無煙炭と坂の上の雲」として、明治37年(1904)の日露戦争直前に海軍が、美祢地区大嶺に無煙炭採掘のため臨時採炭部を設置したことを書いたが、上記の明治38年大嶺支線の開業は、この日本海軍の強い要求で成されたものである。

戦闘艦用無煙炭は、火力=推進力に優れレーダーの無い時代の非視認性(現代風に言えばステルス性?)に優れていることから、艦隊運動や戦闘能力に大きく影響を与えるものであった。
この開業で大嶺炭鉱で採掘された無煙炭は、厚狭駅を経由して海軍省徳山燃料厰への輸送が可能になった。

尚、大嶺支線の敷設工事は軍の要求に応える突貫工事であったが厚狭川に沿う難工事で明治38年6月完了の予定が8月末完工と2ヶ月遅れになったと伝わる。

連合艦隊がロシアバルチック艦隊を壊滅させ日露戦争の帰趨を決した日本海海戦は明治38年5月の事であり時系列で見ると残念ながら、大嶺の無煙炭は海戦に間に合っておらず、連合艦隊は英国からの輸入無煙炭で戦ったことになる。

◎近くの小学校、ネットフェンスの下から覗く花①
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椎名誠「世界の家族 家族の世界」

椎名誠さんは私より5年先輩の、旅する作家、映画監督、写真家である。
また酒好き、ビール好きの方がより知られているかもしれない。
椎名さんが世界中を旅して出したエッセイや写真集は数知れずだが、これもその一つで、世界のいろいろな家族に出会いその感動を写真と共に集めた本である。
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全部で17の家族が載っているが、最初のモンゴル遊牧民家族の章で「外国の旅ではホテルよりもその土地の家族の家にホームステイする方が好きなので、ずいぶんいろんな家族との付き合いをしてきた」と書かれている。

17家族の内最も笑顔の素晴らしいと思えた写真が載っていたのが第4章「家族でカイラス巡礼」

チベット人は一生のうち一度は、チベット仏教の聖地カイラス巡礼を果たすのが人生の夢で、ラサから約1000km離れた場所へ平均して4000mクラスの高地を旅していく。
村毎に巡礼団を組んでトラックを仕立てたり徒歩で。

もっとも厳しい苦行は、一歩進む度に体を大地に叩きつけ、拝みながら自分の身の丈だけ進む、五体投地拝礼で、これは日本の紀行番組でも見たことがあるが、地面に直接当たる腕、胴、足には思い思いの緩衝材が付けられているが直ぐにボロボロで凄絶な姿になる。この方法だと2~3年がかりはザラに有るらしい。

カイラスの麓のテント村(タルチェン)でこれから約52kmの巡礼道を一巡り(チベット仏教は右回り)するため準備する集団
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〈子供たちの写真の、はにかむような写り方が、私の就学前に撮られた昔のモノクロ写真と、とても似ている感じがする〉

椎名さんがタルチェンで親しくなった若い夫婦と子供3人の家族、村の人達とトラックでやって来たが子供にはトラックの荷台は辛い道中で、これから一行と離れ、家族だけでカイラスを巡る準備中。

「子供が時折熱を出したりするので、医者のいないところを一年以上旅するのは不安もあるが、家族がこうして人生最大の巡礼の旅に出られるのだから、これほど幸せなことはない。」と語っていたそうである。
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〈子供を前にして母親の笑顔がとても印象的、この笑顔は宗教を信じるところから来ているのか、「幸せとは何だろうか?」と問いかけられた気がして、記憶に残る一枚〉

近所の家で育てられている朝顔
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大和川河川事務所からの回答/妖怪アマビエ

☆7月9日のこの日記に「川にはびこる雑木から見る治水の現状」と題して身近な洪水対策の事を書いたが、そのなかで住んでいる近くの大和川に雑木がはびこり、洪水の起点になりかねないことを、国土交通省大和川河川事務所にメールで伝えた事に触れた。

その大和川河川事務所からメールで以下の通り順次取り組むとの回答があった。
丁寧に回答頂いた事に感謝すると共に今後の推移を見守りたい。

◎私から連絡した内容

国道170号大和川に架かる橋から下流方向を見ると川の流れと河川敷の境界を中心に雑木が繁り、一部では小さな林のようになってかつ連続しています。増水時、流木や大きなゴミなども引っ掛かり流れを阻害して洪水の起点にもなりかねないと思います。治水対策として伐採撤去が必要と思うのですが、対応をお聞かせください。」

大和川河川事務所の回答内容
   
「平素は、国土交通行政にご理解、ご協力を賜りまして誠にありがとうございます。

また、貴重なご意見ありがとうございます。

大和川に繁茂する樹木については、治水上の影響を考慮しながら、優先度の高い区間から適宜伐採等の対策を実施しているところです。
ご意見いただいた箇所につきましても、治水上の影響を考慮しながら、伐採等の対応を実施していくこととしています。

大和川相談室」

◎温暖化の進行で集中豪雨が発生しやすくなっている中で、経済の低迷と高齢化で治水に掛ける予算に限りがあることを併せ考えると、少し大袈裟になるかもしれないが、今後数十年のスパンで考える、ソフト面も含めた総合的な治水戦略と実行が必要と思う。


☆昨日定期検診で行った眼科医院に掲示の妖怪アマビエ図
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これは何かと聞いた私に、
「アマビエは江戸時代、肥後熊本に現れて疫病等を予言した妖怪で、コロナ騒ぎの今、世間やインターネット上で話題になっており、これは別の先生に書いて貰った」と、眼科の先生が解説してくれた。
3本足がユニーク!

医者と妖怪とはあまりそぐわない気がするのだが、とうとう医者も妖怪頼みになってきた?、、、、、

厚狭中同期打球会の会合

昨日は大阪に住む故郷、山口県山陽町立厚狭中学校の同級生でゴルフをたしなむ3名「厚狭中同期打球会」の久しぶりの会合で夕方から大阪天王寺和食店「がんこ」へ。

最近全くゴルフ会も出来ておらず、コロナの関係もあり躊躇するところもあったが、以前から日程調整したのを中止するのも
もったいなく、個室を予約して決行となった。

折角の機会なので私が育てている野菜を渡そうと思ったが、収穫の巡り合わせで、昨日はキュウリが一本しかなく、ナスは6本とシシトウが採れたのだが、少量で我慢して分けて貰った。
野菜はこちらが欲しいとき等、お構いなしに自分のペースで実をつけていく。

和食「がんこ」玄関
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コロナウイルス対応実施の店をアピール
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待ち時間に「がんこ」入居ビル15階から天王寺公園を見る。
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同じく通天閣方向を見る、天王寺界隈もビルが増えてきた。
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個室を予約していたので、3人とウエイター以外は接触がなくほぼウイルス対応は出来ていたように思う。
コース料理でなく魚、肉、等々バランス良く注文してビールで乾杯。

郷里の思い出いろいろ、ウイルス対応現況、給付金やリモートワーク政策の事、私のブログ、等々の話で意見が飛び交った。

その後帰り際、喫茶店でコーヒータイム、次回地元ゴルフを、10月実施することを決めたが、実施できれば良いのだが。

故郷を離れて半世紀近く、遥か遠い大阪で元気に飲み会ができていることに感謝と不思議な縁を想ってしまう。

今日の歩き、道端の野草
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ふるさと・厚狭の特産「赤間硯」の歴史

私の子供時代、多分昭和30年代頃だと思われるが、山陽本線美祢線の駅である、国鉄厚狭駅の切符売場の近くに厚狭特産品コーナーとしてガラスのショーケースが置かれ、その中に紫色の「赤間硯」(あかますずり)が名札と共に陳列されていた記憶がある。
☆ちなみに硯(すずり)は毛筆書きする場合、墨を水で磨りおろし溜めておき、筆を浸す為の文房具。
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この記憶は、旧山陽町教育委員会が発行された「山陽町史」や「山陽史話第一集」を読んでいる内に甦って来たもので、この機会に今は全く廃れてしまった「赤間硯」についてこれ等を参考にしながら書き残しておきたい。

赤間硯」の名は下関の旧名赤間関から来ており、元々下関の名産で全国に売り出されていたが大半の原料石は対岸の門司産であった。
寛保元年(1741)厚狭の北東部・森広地区で硯石のなかでも最高級とされる紫色の紫金石が発見されその後、厚狭鋳物師屋(いもじや)地区でも発見された。

当初これ等の原石を下関に送り出して「赤間硯」に加工、赤間硯の上等品の石は厚狭と言われるようになった。
その後厚狭で硯完成品にまで加工する事が徐々に始まり、寛保から約100年経過した天保期の「防長風土注進案」(江戸時代長州藩が藩内各地域の風土実態を報告させた史料)によると厚狭に27軒の硯師と2軒の硯屋が有った。これは当時の厚狭村の全戸数583軒の約5%に当たる。

明治になると教育普及に併せて筆記用具としての硯が国民全般の生活必需品になり厚狭の硯産業はにわかに活況を呈し、硯工は一挙に200人以上になり農家の副業としても結構なもうけ仕事になった。

大正・昭和になると鉛筆やペンの普及により需要が落ち込むことと併せ、農民が工場に向かうことにより硯生産は衰退に向かい、さらに戦争がとどめを刺すことになる。

戦後まだ原料の硯石が豊富であった事に着目し、昭和33年厚狭の大理石加工を本業とする長門石材株式会社が、機械にかけて石を切り大量生産を試みたが結局数年後に休止したとの事である。
私の記憶の中にある厚狭駅の紫色の硯はどうも長門石材株式会社が製作したもののようだ。

現在「赤間硯」は国の伝統工芸品に指定され、厚狭のとなり宇部市万倉地区などに少数の職人さんが活動されているようである。

今年初めて栽培しているシシトウの花、シシトウは天ぷらに!
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