厚狭毛利家代官所日記No59慶応3年(1867)⑦隠し田の摘発

これまで書いてきたようにこの時期の厚狭毛利家では財政が逼迫、色々な打開策を打ち出しているがこれもその一つである。

7月5日の記録を現代文に直す

『年貢の付加されていない田畑を所持するものがままあることを聞く、これは不毛の地を開き屋敷地または作物などが追々作ることが出来るように長期間精力を尽くしたものと思われる。

しかし年数が経てば問題もある、このため7月中を期限として改めて届け出ること、相応の年貢高(石盛・こくもり)を示した後にいままで通りの者に土地を持たせる。

この上隠し置いた場合は法度もありその土地を取りあげる、その上本人は申すまでもなく村役人まで罪に問う。

近年はもちろんのこと以前より水の手が行き届かず畑にしていたものに堤等を整備して田として成り立ったものについて田としての年貢を納めていないものがまま有る、これについても7月中を以て申し出ること。』

(石盛というのは一筆毎の土地を米の収穫量に換算するもので屋敷地や畑、麦の裏作等も一定の率でこの数値に織り込まれこれによって石高制が成立する)

🔘隠し田は隠田(おんでん)とも呼ばれ農民が年貢の徴収を免れるため密かに耕作した田畑のことで、古い時代から存在する。領主側もある程度は許容して農民の意欲を削がないようにするケースも多い。

余り厳密に摘発したりすると一揆の要因になったりすることも多く慎重に成らざるを得ないが、この時の厚狭毛利家の財政は相当に追い込まれていたものと考えられる。

🔘これより2年後の明治2年(1869)から明治3年の年初にかけて、いわゆる「脱退騒動」と時を同じくして厚狭は大規模な百姓一揆に巻き込まれ犠牲者も出た。これらの背景には続いた戦乱でのこのような農民への過重なしわ寄せがあったものと考えられる。

 

【「北帰行」共に歌いつ鳥帰る】

 

🔘施設の玄関に置かれているヒヤシンスの鉢植え