山陽町史②古代・条里制のなかの厚狭

大化の改新(645)により全国の土地人民は豪族の私有から国家の所有・公地公民となった。公民は男女6歳になると一定の公田が給され(例えば良民男子は2反)6年毎に戸籍を改めて公平を期した。これを班田收授法と呼ぶ。

この班田收授を効率的に実施していくため条里制と呼ばれる区画整理の大事業が全国規模で半世紀以上の年月をかけて実行された。

河川や地形を踏まえて耕地を6町毎に区切り北から南に1条2条、東西方向に1里2里と数えた。この6町四方の一区画に坪番号が付けられた。現在残る地名で◯◯坪という地名はこの名残りのことが多い。

厚狭川の右岸、千町ヶ原を含む厚狭地域一帯には条里を画していたとみられる畦や溝が部分的に遺り、地名にも中ノ坪、東大坪、西大坪、駒ヶ坪等々たくさんの字(あざ)地名が残されており条里制の跡を裏付けている。

(私の生まれた村・鴨庄(かものしょう)の田畑の区画を思い出すと、まさにこの条里のうえに発達したような土地構造であった)

・山陽町史に載っている厚狭の条里の想定図

口分田を給された公民は租・庸・調(そようちょう)と呼ばれる税を納める義務が生じた。

租は人別に反当たり五把の稲(玄米3升)を納める。指定した産物を納める調について厚狭郡については銅や絹の記録がある。これに加えて庸としても本来の都での労役に変えて布または米を納める必要があった。

この他に国毎に雑徭(ぞうよう・国司による労役)があり成人男子(正丁)は60日間も拘束された。

🔘公地公民制度下に於いても民衆の税負担は相当なものがあったことがよくわかる。

 

【ふるさとに行乞(ぎょうこつ)の夏山頭火

 

🔘施設の庭、フレンチラベンダー、蜂も来ている。