フィリピン・マニラ市街戦のことなど、「あゝモンテンルパの夜は更けて」

1月6日のこのブログで「平成の天皇皇后 両陛下大いに語る」と題して、月刊誌・文藝春秋一月号に昭和史家・保坂正康さんが、作家半藤一利さんなどと共に天皇皇后両陛下(現在上皇上皇后両陛下)と会い歴史などについて話し合われた記事が掲載されていることを書いた。

文藝春秋の二月号にはこの後半部分が載っており、これも興味を持って読ませてもらったがこの中で先の戦争のフィリピン・マニラ戦のことに触れて話し合われている。

私は太平洋戦争の開戦のことも含めて関心があり色々な本を読んできた気がするが、この陸戦については今まで殆んど知らず、この度せっかく得られた知識なので書き残しておくことにした。

・フィリピン各地での激戦で日本人50万人以上が命を落としている。この数は日中戦争以来中国方面の死者数を上回り戦域別で最も数が多く、食料不足による餓死者が多かったことも影響した。

・一方戦禍に巻き込まれたフィリピン人が百十万人も犠牲になっている。

・1945年2月~3月のマニラ市街戦だけでもフィリピン人が十万人も亡くなっている。

・陸軍はマニラを無防備都市にして撤退しルソン島山中の持久戦に持ち込む考えはあったが、レイテ沖海戦で沈められた軍艦の生存者を集めて陸戦隊を組織していた海軍が、船を沈められた負い目もあり徹底抗戦したことと、米軍による無差別砲撃もあり多くの市民が巻き込まれて犠牲になった。

戦後ヒットした歌謡曲渡辺はま子さんが歌った「あゝモンテンルパの夜は更けて」がある。

マニラ近郊のモンテンルパ刑務所に収監されている日本人戦犯が作詞作曲したもので、現役時代仕事でモンテンルパを通った際には、ここがそうかと複雑な想いがこみあげて来た記憶がある。

関係者などの努力がフィリピン政府に届き当時のキリノ大統領の特赦で戦犯108名の帰国が叶った有名な話が残されている。

キリノ大統領は日本軍の戦闘行為によって夫人と3人の子供を亡くされたと云われるが、今回知ったような多数のフィリピン人の犠牲や家族の犠牲にもかかわらず、恩赦認めた大統領やフィリピンの人々のことを決して忘れてはいけないような気がしている。

 

🔘今日は作家・司馬遼太郎さんの忌日、菜の花忌

 

【菜の花忌 一朶(いちだ)の白い雲を見ゆ】

 

【菜の花忌「世に棲む日々」は我が故郷】

 

🔘施設の裏で実を付けているピラカンサタチバナモドキ。