厚狭毛利家代官所日記51慶応2年(1866)⑤四境戦争・小倉口での不幸な出来事

1月30日のこのブログに厚狭毛利家・強義隊が小倉口から凱旋し戦死者4名を祀るため領内挙げて招魂場の建設が行われたことを書いた。

代官所日記にはこの戦死者とは別に夫卒(人夫)の行方不明者についての記載がある。

・12月4日の記録

『去る7月強義隊が小倉に出張した節、杣尻(そまじり)村百姓兵左衛門長男・政之進は中間(ちゅうげん)として同行、28日敵方に捕らわれ今もって行方不明になっている。父親から葬式を営みたいとの申し入れがあったが見合わせるよう伝えている。

本日招魂祭を行うに当たり御救料として金5両を下された。

尚、政之進が来春になっても帰還しない場合改めて詮議する。』

・慶応3年7月19日の記録

『中間・政之進は今もって帰らず敵に捕らわれたのは来る29日(丸1年経過)に当たり葬式の支度を営みたいと願い出があり許された。

同年7月29日杣尻百姓政之進の事、今日葬式が営まれお救いとして金2両、米1俵が下された。』

🔘夫卒(人夫)としての従軍であり、調べてみると、明治11年の「観山(ものみやま)招魂社由来」にその記述があり「原田政之進略伝」として名字が付いて書かれている。

その経過は、敵地九州に上陸後豊前国(福岡県)大里の庄屋を呼ぼうとして敵に捕縛されて小倉に連行、拷問の後死刑に処されたようである。

招魂場に祀られ碑も建てられたとあるのは僅かな慰めだが、本来民間人として終わるはずのものが犠牲になっている記録は、昨今のウクライナの状況とも併せ痛ましいことである。

 

【古文書に東欧の冬重なりて】

 

🔘介護棟の庭シリーズ、画像検索ではビデンスに合致するのだが。