厚狭毛利家代官所日記No56慶応3年(1867)④賭博の摘発

慶応3年7月から8月初めにかけて領内で常習賭博の摘発があり、この経緯や処分の要約は以下の通り。

胴元は沖開作(厚狭川河口の干拓地)百姓の利兵衛というもので、領内の百姓に仮親を頼み家も借り受けて他所から移り住んでいるもの。

賭博に参加したものは領内の百姓が3人、厚狭毛利家の菩提寺・洞玄寺の家来が1人、この他によそ者が多いがこれは詮議の対象になっていない。

口上書を読むと酒を誘われ人数が集まったところでよもやま話などをしている内に「一文掛け」と呼ばれる低額の賭博に誘われているようで、4月頃からたびたび集まっていたとのことである。

摘発のきっかけは聞き込みとあるので訴え出たものが有るように思われる。

処分は胴元の利兵衛が領外退去(追放)、仮親になった百姓が閉戸(へいこ)処分(長州藩の刑罰のひとつで道路に面する窓を閉ざし昼夜の謹慎と他人の出入りを禁ずる)

賭博をした百姓3人には過料(罰金)銀2両~3両、閉戸7~27日間の刑が申し渡された。

迷惑を蒙ったのは3人が入っている五人組合(5軒1組で相互監視、年貢確保、相互扶助の連帯責任を負わせる制度)の人達でそれぞれ連帯責任で3日間の追込(おしこめ・出入り禁止)処分を受けてしまった。

洞玄寺家来のものへは代官所の支配が及ばないため別途寺社方から処分があったと思われるが日記には記録がない。

🔘いつの時代も賭博は無くならないが、封建時代では罪人が発生すると連帯責任が発生するような仕組みになっており、否応なく監視社会になってしまうことが見て取れる。

 

【起重機の荷降ろす音や春の街】

 

🔘近くの花壇のオオキバナカタバミ