「街道をゆく・長州路」④奇兵隊

6月24日の続き

長州人に関わる司馬遼太郎さんの「長州路」の記述を抜粋していく。

司馬さんが山口・湯田温泉を訪ねた時の話。

『長州は奇兵隊の国である。「何か民謡をやってくれませんか」とTさんが芸妓(ネエサマ)にたのんだ。ーーー
出たのは「男なら」という萩の民謡であった。長州の民謡といえば、列強艦隊を下関の沿岸砲台で攘(う)ちはらうという、尊皇攘夷の民謡ひとつきりしか残っていない。

♪︎♪︎男なら お槍かついでお中間(ちゅうげん)となって ついて行きたや 下関♪︎♪︎

長州藩が下関付近に砲台をきずくとき、女子供までが土を運び、盲人までがヤグラの上にのぼり、石運びの拍子をとるためにとうとうと太鼓を打った。江戸期を通じて、庶民をこのような政府方針のために動員できた藩は長州藩しかなく、庶民軍である奇兵隊は、このような、つまり盲人まで太鼓を打ったという気分のなかから成り立った』

奇兵隊士だったおじいさんが、戦いが終わり横浜見物をしていた時のことをおばあさんに語り残した話。

『むこうから真っ青な顔をした幽鬼のような青年がやってくる。みると、ついこの間まで一緒に弾のなかをくぐってきた戦友であった。なんだその顔は、とおじいさんが聞くと「じつはここ4日間一睡も眠っちょらんのじゃ」という。ーーー「それが後の元帥(軍人の最高位)・寺内正毅(てらうちまさたけ・元首相)だったそうです」ーーー要するに奇兵隊士といえどもみな維新政府の蔓(つる)にぶらさがれたわけでなく戦争がおわってから英語を勉強するために真っ青になっていたものだけが何とかなれたのだ、というのがおじいさんがおばあさんに語った内容らしい。ーーー』

奇兵隊というのは乱暴者ぞろいのように思われているが、その屯営(長州吉田村山陽道厚狭宿の西隣の宿場)の図書館はじつに充実したものであったという。そのことは故青木正児(まさる)博士の「奇兵隊の書物」という一文にくわしく書かれているそうだがーーーーー「戦闘行動中の軍隊が、こうも重厚な図書館を整備していたことは感動的である」という旨のことを青木博士は書かれているらしい。』

🔘以上のように司馬さんが奇兵隊を介して長州人のことを書いている内容は、下手な解説は不要と思われる。
このような背景をもった故郷を有難いと思い、戦いながらも勉学を忘れない先人を尊敬するばかりである。

🔘本当に山口県は民謡不毛の地である。私も音程が外れっぱなしながら何とか唱えるのは「男なら」だけです。

🔘健康公園樹木シリーズ、これはヤマザクラ、確かにソメイヨシノなどとは微妙に違う。桜の咲いたときにその比較をしてみたい。