長府人・乃木希典③厚狭に残る父親のエピソード

乃木将軍の父親・乃木希次(まれつぐ)は長府藩藩医であったが弓の達者などを見込まれ、武臣である馬廻り役に取り立てられた。
その後紆余曲折を経て藩主一門の礼法指南役や藩校講師などを勤める。

私のふるさと厚狭は、その大部分が萩毛利藩家臣としての厚狭毛利家や熊谷(くまがい)家などの給領地であったが、例外として山野井(やまのい)村一帯は長府藩の飛び地領になっていた。
(この経緯については2020年6月16日のこのブログに「厚狭の領主・三沢為虎②」として書いたことがある)

藩政時代山野井村の大庄屋をつとめたのが多年にわたって酒の醸造も営んだ太田家で私の中学同級生にも縁者が居られる。
昭和46年に当時の「山陽町郷土史研究会」が編さんし教育委員会が発行した「山陽史話 二」中にこの太田家を紹介したコラムがありそこに乃木希次が出てくる。

当該部分を以下に転記する。

『ーーー(太田家の)その家門の栄えが、このような壮大な家の構えとなった。
長府の藩主はしばしばこの家を訪れた。
おつきが乃木大将の厳父の希次という人で、殿様のお膳やお椀をすかして見て、一つでもゴミが付着していると、何度でもやりかえさせた。
遠い台所から奥座敷まで、長い廊下を運べばゴミの一つや二つは着くのが道理で、女中たちは「またイヤなジジイが来た」と敬遠したが、食事中彼は殿様に一々指図して「次はこれ、次はこれ」と、食べる順序を教えたという。
さすがの藩主もやりきれない気持ちであったと思う。ーーー』

誰に取材して書いたものか今となっては分からないが、礼法指南役の爺さんの面目躍如といったところだろうか。
その性格の一部「直情径行」が乃木将軍に受け継がれているように見受けられるのだがこれは私も含めた長州人の持つ基本的な資質のような気がする。

この殿様とは時代から見て第14代で最後の長府藩主・毛利元敏(もととし)と思われるが、世継ぎの時代から希次に指導を受け頭が上がらなかったのだろう。

🔘シロツメクサがたくさんあるなかで、稀にムラサキツメクサが赤っぽく生えている。よく見ると葉に斑が無いのがシロツメクサで有るのがムラサキになっているように見える。