日経新聞に連載中の作家・安部龍太郎さんの小説「ふりさけ見れば」は養老元年(717)第九次の遣唐使と共に唐・中国に渡った遣唐留学生の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や吉備真備(きびのまきび)達 を主人公にした小説である。
吉備真備は遣唐留学生の常として、次の天平5年(733)第十次遣唐使一行と共に苦難の末帰国を果たし朝廷で右大臣まで累進し吉備大臣(きびのおとど)と呼ばれる。
しかし阿倍仲麻呂は唐で既に任官していることを理由に帰国しなかった。
その後天平勝宝4年(752)第12次遣唐使に同行して帰国を試みるも暴風で流され安南(当時のベトナム)に漂着、唐・長安に戻る。
その後帰国は許されず唐皇帝に重用され宝亀元年(770)77歳で生涯を終える。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」には「わが朝の学生にして名を唐国にあげるものは大臣(吉備真備)朝衡(ちょうこう・阿倍仲麻呂の唐名)のみ」と記される。
問題は阿倍仲麻呂がなぜ吉備真備等と帰国せず異国に骨を埋めることになったかだが、ここに来て安部龍太郎さんは新しい独自の見方を示されている。その骨子は以下のようなものである。
『当時の日本は朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)と対抗するためにも、唐との関係正常化が大きな課題であり、その為唐側から要求された
・律令制の導入
・仏教を国の基本とする
・長安にならった都をきずく
・国史を明らかにする
について順次改革を進めているが、その内の国史編さんに当たっては唐側の史書と整合させる必要があった。
唐側から見た日本の情報は最高機密であり、この機密情報を得るため阿倍仲麻呂に任務が与えられ唐に残留することになった。』
という設定である。
この物語では当初から阿倍仲麻呂が長安で築いた妻と子供2人の温かい家庭の描写が繰り返しあり、私はてっきり帰国断念は家族のためとなるのだろうと予測したが、全く裏切られてしまった。
〈私がタイ国に駐在していた時代、現地で結婚しタイに住むことにした企業人を何人もみたせいかもしれない〉
安部龍太郎さんが安土桃山期の画家・長谷川等伯を生き生きと描いた「等伯」には感動した記憶が残っているが、直木賞作家の構想力にはこの小説でも脱帽する。経済のニュースを見終わった後のホッとタイムでこの後の展開を毎日楽しみにしている。
◎今朝は殊更清々しい中、歩きの途中すすきの群生越しに見る金剛山(右)葛城山(左)の山なみ、中央右にあるのが八尾飛行場の管制塔。