ふるさと厚狭の教育事始め④厚狭中学校

8月15日のこの日記に厚狭(あさ)小学校の事を書いたので、やはり続いて厚狭中学校の事を書いておかなければならない。

私は昭和40年(1965)の厚狭中学校卒業生で手元にある卒業アルバムを見ると同年は10組、442人の大人数だった。
アルバムから転載した当時の校舎
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昭和22年4月1日、六・三制義務教育発足に伴い厚狭町立厚狭中学校として同年5月5日厚狭小学校講堂で開校式が行われた。
当時は校舎が無い状態で、厚狭小学校と当時塚ノ原に存在した旧県立厚狭中学校の2ヶ所に間借りしての授業がスタートした。

開校以来新校地探しが始まり、3ヶ所の候補地の中から私たちが通った厚狭山川地区にある高台に決まり、昭和23年2月から建設工事が始まり24年4月に第一期、11月第二期、25年10月本館付属建物で工事を終え、その後プールや体育館の竣工や教室のコンクリート化などはあるものの、この基本型が現在まで続いている。

この時期は自治体財政の極めて苦しい時期で、厚狭に工場のある日本化薬、町出身の篤志家、町内有志などからの寄付寄贈を受けて完成したと云われている。

昭和31年4月からは山陽町立厚狭中学校(現在は山陽小野田市立)と呼称が変わり、私たちが通った時代につながる。

私が通っていた通学路途中は旧厚狭炭鉱の跡地で所々陥没して蓮沼になっており、大雨の後は回り道が当たり前、また校舎が高台にあることから登校時の最後の登りが結構ハードであった記憶が残っている。

また、中学校の図書室は蔵書が少なく、いつの間にか殆んど読み終わり、しょうがないので遠い町立図書館へ廻っていた記憶もある。

昨年11月故郷近くの長門湯本温泉で古稀に合わせた厚狭中学同期会が行われて、55名の出席があった。
また今はコロナで自粛中だが関西周辺の同級生7~8名で年数回大阪に集まり食事とカラオケが恒例になっている。

「歩き」途中雑草に絡まる花とつぼみ
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