大阪中之島で織田信長を学び直し⑥長篠の合戦

昨日は中之島朝日新聞社フェスティバルタワーでの笠谷和比古教授の講座「織田信長の政権と本能寺の変」の6回目を受講した、今回のテーマは「長篠の合戦
云うまでもなくこの戦いは、織田・徳川連合軍が武田信玄の後継者、武田勝頼に大量の鉄砲を使用して大勝し武田家凋落の起点と、織田信長が包囲網の苦境から脱するきっかけになった戦いである。

大阪中心部・淀屋橋南詰めから中之島大阪市役所を見る
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淀屋橋から堂島川の東方向を見る
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私はかねてよりこの長篠の戦いで、なぜ武田軍が大量の犠牲を次々に出しながら8時間に及ぶ戦闘を継続し、結果的に壊滅的な敗北を喫したのか、普通であればある程度の犠牲を出した時点で戦闘を中止し、撤退するのではないかと思い疑問を抱いていた。

当時の武田軍の状況を記した「甲陽軍鑑」、織田軍を記した「信長公記」更に徳川軍を記した「三河物語」この異なった3種類の史料を使用した今回の授業で、この疑問に対して質問も交えて以下2項目の答えを得ることが出来た。

①織田徳川連合軍は武田軍を自軍の鉄砲隊の前に引きずり出す為に、繰り返し囮を出して馬防柵の前に出て戦い、その後敢えて引き退き、追い討ちする武田軍を鉄砲で撃ち取ることを繰り返した。
②武田軍も鉄砲に対する予備知識があったが、鉄砲の弱点である次の発砲までの時間がかかる事を知っており、正面より連続攻撃すればこの間(ま)を突いて突破口がひらけると考えて攻撃を続けた。

永年の疑問の一部が氷解し、汗だくで頑張って出掛けて、その甲斐があった。
それにしても汗をかいてビルに到着、喫茶コーナーで飲んだアイスコーヒーはため息が出たほど身にしみた。

中之島遊歩道にある母と子の像
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