ふるさと厚狭の映画館①加茂川座

私の子供時代は娯楽の主役が映画からテレビへと変わり行く曲がり角に当たっていた。
昭和34年(1959)4月10日、上皇陛下が皇太子として美智子様との御成婚の日で、この頃から爆発的な白黒テレビブームが始まり、映画の斜陽化が叫ばれるようになる。

厚狭の街の映画館といえば私の記憶に有るのは、「厚狭松竹」と「厚狭三晃(さんこう)」の2館だが、郷土史料などを見るとこの他に「加茂川座」という芝居と映画の両方を手掛けた大きな劇場が有ったようである。

山陽小野田市立厚狭図書館に重村房雄著「ふるさと談義」という本があり図書館ネットワークの取り寄せシステムを活用して取り寄せ読んだところ、このなかに「ふるさとの劇場・映画館物語」という章があり、この部分も参考にさせて貰いながら記憶をひもといて書いておきたい。
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既に厚狭の街には映画館の痕跡は何もなく、日本全国でも映画そのものも失くなるのではないかと思われる時期もあったが、優秀な映画人の奮闘もあり良い映画は確かに生き残り、今も娯楽や教養の柱の一つになっている。

①加茂川座
厚狭毛利家の居館があったため殿町と呼ばれた地区に私達が通った旧厚狭小学校があり、その近く厚狭毛利家ともゆかりの貞源寺の裏手、厚狭川に面した処に有った。
友人に作成して貰った地図
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厚狭は元々鴨庄村と重なり京都加茂神社の荘園由来があり、厚狭川のことを加茂川とも称したことからこの名前が付いたと思われる。

大正4年(1915)開業の3階建て、芝居も映画も興行する大きな劇場で、回り舞台も備えていた。
大きな芝居がかかると川筋にかけて幟がズラリとはためき、役者が人力車を連ねて街を回った。
このころ加藤(かとう・河東)地区には芸者のいる置屋が幾つもあったようで、芸者衆から役者へ盛んに声がかかった。
また厚狭にある日本化薬創立記念日従業員慰安会も定期的に開催するなど繁盛していたらしい。

大正の終わりから昭和にかけては芝居よりも映画興行が中心になり洋画も盛んに上映されていた。

厚狭川方向からみた当時の写真(「ふるさと談義」より転載)
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昭和26年(1951)7月火災(放火とも云われる)で焼失、廃業した。
当時対岸の広瀬地区に住んでいた私の友人がこの火事騒ぎがおぼろげに記憶が有ると云っていた。
小学校の通学路から少し外れた厚狭川に出る小路があり、学校帰りに時折通っていたが、そこを抜けるとコンクリート基礎の広場になっていた記憶があり、どうやらそこが加茂川座の跡地だったようである。

昭和40年(1965)頃、広瀬地区の友人が跡地を対岸から撮影した写真、給水塔の左側部分が加茂川座があった辺り
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◎道端のこれはカラスノエンドウと思われる。久しぶりに図鑑とピッタリ来た。
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