厚狭の隣、万倉村宗方(宗像)

故郷厚狭の隣に万倉(まぐら)の宗方(現在:山口県宇部市東万倉宗方)と言う集落があり父方の親戚のお寺があった。また最近知ったのでは友人の親戚もここに在るらしい。

宗方(宗像)は海人族、海の民にゆかりの名前で昔から内陸のこの地にそういう名前が付いているのが不思議で分からずにいたが今日突然に疑問が解けた。

南北朝時代長門国守護でその後大内氏との抗争に敗れた厚東氏についての「厚東氏の研究及び史料」風間書房刊 川副博著 を古本屋で手に入れ読んでいるとP296「厚東関係古文書」項に「長門宗像大神宮文書」として記載があり風土注進案によりて採録すとして、その要旨は

天平宝字8年(764年)厚東武綱が筑前国宗像よりこの地に勧請、神殿造立

明治42年万倉宮尾八幡宮に合祀、社地は山林化

厚東氏の祖、武綱が現在沖ノ島も含め世界遺産に登録された九州宗像大社から勧請して宗像神社を造立したためこの地一帯を宗方(宗像)と称したものらしくその後神社が無くなり地名のみ残った。

厚東氏にどのような目的意識があったのか、私なりに推測すると、

厚東氏を滅亡に追い込んだ大内氏長門、周防守護として大陸との貿易で財を成したことはよく知られているが地政的に見ても前任の厚東氏もその活動があったとしてもおかしくなく厚東氏の遺産を受け継いだ可能性もある。

大陸との交通要路(海北道中)となる宗像大社とのつながりを強く意識して分社を勧請したのではないか。

いずれにしろ若い時からの疑問が歳をとって突然氷解することはとても嬉しい。