映画「峠」

住んでいる施設の映画会で昨年公開された映画「峠」を観た。副題が「最後のサムライ」となっており描いている時代が重なるトム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」を意識しているのかも知れない。

幕末の官軍対佐幕派奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)との戦い「戊辰戦争」で最大の激戦のひとつ「越後長岡藩の戦い」を描いたもので、実在の主人公・越後長岡藩家老で軍事総督を兼ねる河井継之助(かわいつぎのすけ)を演じているのが役所広司さん。

他に仲代達矢香川京子松たか子田中泯吉岡秀隆などの豪華な顔ぶれで監督が小泉堯史(こいずみたかし)さん、私が観た作品は「雨あがる」「博士の愛した数式」「阿弥陀堂だより」等があり、黒澤明監督に師事した経歴もなるほどと思わせる作品ばかりである。

原作は司馬遼太郎さんの同名の小説「峠」で私は2019年7月7日このブログ「幕末 備中松山の人 山田方谷」でこの小説を引用しつつ、河井継之助が師事した山田方谷との出逢いを書いたことがある。

越後長岡の戦いは初期には地の利があり最新鋭の連発ガトリング銃をもつ長岡藩有利だったが、山県有朋などが指揮する長州藩奇兵隊などによって形勢逆転、河井継之助の戦死も含めて長岡藩の敗戦で終わる。

映画では押さえ気味に描かれているが長岡の街も大きく戦火にかかり、戦を主導した河井継之助への怨嗟の声が満ちたともいわれる。

河井継之助は非業の死を遂げたがその「武装中立論」や「藩政改革の手腕」など、もし明治に生きていたらと思わせるものが充分ある。

映画を観ながらわが長州藩も含めた戊辰戦争に至る道をついつい考え込んでしまった。

 

【冬ざれの公園ひとりいざ歩む】

 

🔘施設の近くの花壇、画像検索ではオキザリスのような気がする。

 

 

 

厚狭毛利家代官所日記㊼慶応2年(1866)①小倉口への参戦

幕府の大軍と長州藩が直接戦火を交えることになった第二次長州征伐・四境戦争は慶応元年(1865)4月に征討令が発せられたものの実際に幕府軍が攻撃を開始したのは翌年慶応2年6月であった。

長州藩は四境(大島口、芸州口、石見口、小倉口)全てで優勢に戦いを進め、幕府は8月20日14代将軍・家茂の喪を発する共に15代慶喜の就任を発表、更に8月21日孝明天皇が勅命を下したことで休戦撤兵する。

代官所日記は慶応元年9月から慶応2年8月の間が欠落している。この為山陽町教育委員会が編集発行した「山陽史話一」に掲載されている明治11年に書かれた「観山(物見山)招魂社由来」や「山陽町史」をもとに四境戦争に於ける厚狭兵の戦いを追跡してみる。

厚狭毛利家では九州小倉口方面の指揮を取る高杉晋作に出兵を志願、この方面への動員が許されて7月27日埴生(はぶ)に集結、28日に対岸の大里に上陸した。従軍兵員は二個小隊総勢86名(これに多数の夫卒が加わる)で自ら「強義(きょうぎ)隊」と称した。

(86名は以前このブログで書いたように厚狭毛利家が購入出来た小銃の数に同じで、当時最大限可能な動員であったことが分かる)

小倉口の戦いでは狸山の攻防戦がもっとも激しく奇兵隊、長府報国隊、万倉(まぐら)忠国隊等と共に強義隊もこれに参戦した。

ただ参戦した時期から見て出遅れ感は否めない。

幕府軍の諸将が戦線を離脱するなか、8月1日小倉藩は城を焼いて幼い主(あるじ)や女子を熊本に逃した。この後も戦いは散発小倉兵が奮戦するも、他の三口と共に大勢は決して10月10日小倉藩と止戦の講和が成立した。

11月2日の日記には強義隊は厚狭に帰着、直ぐ様厚狭毛利家当主が接見お酒を下されたと書かれている。

この戦役での厚狭兵・強義隊の戦死者は4名、何れも厚狭東部にある物見山招魂場(ものみやましょうこんじょう)に祀られている。また後日明治21年に東京の靖国神社にも合祀された。

 

氷雨去り墨絵の海をフェリーゆく】

 

🔘近くの道のそばにある花壇、画像検索ではマリーゴールドのように思われる。

ダイキン工業の成功に見る家電凋落の一因

一時は世界を席巻していた日本の家電産業は昨今凋落が甚だしい。

永年籍を置いた業界が中国や韓国メーカーの後塵を拝するのを見ているのはなかなか辛いものがある。

その凋落の要因については

①国内にメーカーが乱立して過当競争を演じた。

②高品質多機能にこだわりすぎた。

③世界各地の求めるものと製品が乖離してガラパゴス化していた。

④多くの異なった商品(映像機器、冷蔵庫、空調機器、音響機器、調理機器etc)をラインナップしているため、商品ごと個々の投資や企画に集中出来ず限界がある。

⑤オーナー企業と違い戦略投資などが遅くなる。

等々何れも一理ありそうな評価がなされている。

そのなかで広義の家電メーカーとも云える空調機器専業のダイキン工業の躍進は注目に値する。

ダイキン工業は大阪金属工業が名前の由来で、冷凍機や冷媒(れいばい・冷凍機内を循環して熱交換するガス)からスタートしておりいわば空調関係をずっと追求してきた会社と言えるかもしれない。

私が家電に従事していた頃自社のことも含め空調事業はある面バクチに近い事業と思われていた。それは例えば暑い夏がくると爆発的に売れて商品が足らなくなり、暑くない夏だと在庫の山赤字の山が出来ることに由来している。

ダイキンはこれらを乗り越え今や空調事業では販売額世界一と云われるようになった。最近の日経新聞の記事によると米国のシェア現状第二位17%(一位は21%)を、現地販売会社の買収やインバーター(周波数を変換してモーターの回転数を最適化する)を始めとする省エネ技術、空調の遠隔監視システムの導入などを通じ2025年にシェア一位を目指すとのことである。

このダイキンの健闘は事業を絞り込んでそこへ経営資源を集中させることの大切さを教えているように思われ、日本の家電各社が広範囲に展開していたことの弱点である上記の④を示唆しているように思われる。

 

【伴走の声迫りくる冬歩き】

 

🔘近くの花壇に残っている花の一部、これもカタバミの仲間かもしれない。

桶狭間のなぜ?

歴史のあれこれを追跡していると歴史家の説明を色々読んだり聞いたりしてももなかなか疑問が解けていないことがあり、例えば以下のようなこと等々である。

・大軍を率いていた今川義元桶狭間織田信長に攻撃され首を取られるほどの惨敗に至ったのはなぜか?

長篠の戦いで織田徳川連合軍の鉄砲隊の前面に武田軍は全滅に近いまで繰り返し長時間攻撃を続けたのはなぜか?

関ヶ原で毛利軍は全く戦わず傍観し徳川の軍門に下ったのはなぜか?

NHK大河ドラマ「どうする家康」が始まり色々とマスコミなどで徳川家康が取りあげられているが、月刊誌・文藝春秋にも歴史家・磯田道史の「わが徳川家康論」が連載されており新年特大号では信長、家康の運命を変えた一戦として桶狭間の戦いが取りあげられている。

戦いの結末で戦国大名の首が取られるという珍しい事件について、なぜそのような異常事態が生じたかが論じられているのだが、そのなかで組織論的に分析している点が要因のひとつとして非常に説得力がある。

戦国大名は大きく二つのタイプに分かれる。ひとつは国衆(くにしゅう)と呼ばれる地域の武士の連合体で、地域、村落ごとに独立性の高い国衆(小領主)がいて緩やかな繋がりを持ち大名に従っている。

この場合兵力数万人とは例えば数十人の集団が千ほど集まっている形で、今川軍はこれに当たる。(わがふるさとの毛利軍もこの様な形態であった)

一方これらの国衆を統合、直属家臣として大名の意志が素早く貫徹出来る体制を敷いた軍団が現れつつあり代表例が織田家であった。

桶狭間の戦いはこの両者の違いが顕著に表れた結果で、今川の軍列が伸びきってバラバラに分散し、本陣に情報が伝わらないうちに、情報や戦闘目的の共有度合いの高い一体になった織田軍に直接本陣を急襲された。

もちろんこの他にも天候や地形、情報などが複合的に影響していると思われるが、説得力のある論のひとつと云える。

 

茅渟(ちぬ)の海 冬靄(もや)の底 汽笛呼ぶ】 

 

🔘健康公園管理室の近くに植えられている菊の仲間、画像検索ではヒナギクという答えが出た。

 

 

 

中島みゆき・心の痛みがわかるレーダー

文藝春秋新年特大号の「101人の輝ける日本人」に音楽プロデュサー・瀬尾一三さんが歌手・中島みゆきさんのことを書いた「心の痛みがわかるレーダー」と題した一文が載っている。

このブログ昨年の11月1日に『中島みゆき「ファイト」』という表題で書かせて貰ったことがあるが、私は中島みゆきさんの音楽の中でもその詩が卓越していると思っている。

瀬尾さんは1988年以来中島みゆきさんのCD、コンサート、舞台のプロデュースを手掛けておられ、いわば身内みたいなものかも知れないが、以下のように私も全く頷いて同感できるような中島みゆきさんのことを書かれている。

・中島さんの曲の世界にあわせて音をアレンジするのが僕の仕事、以前は事前に曲の方向性を話し合ったこともありましたが常に私の想像の上をいく曲が届くので、何も言わないようになりました。

・彼女は生き方をまげず自分に正直に曲を作っています。二十代でしか作れない曲、三十代で歌いたい曲と、年代ごとに自身の表現したいことを誠実に歌ってきました。

・彼女はあらゆる人々に向けて歌っていますが、世の片隅で生きている人たちにもその歌が届くのは、多くの人の心の痛みがわかるレーダーを持っているからだと思います。

🔘世の中には努力を続ける天才が確かにいるらしい。

 

【冬の夜に 中島みゆき  「わかれうた」】

 

🔘散歩の道筋に植えてあるシクラメン

昼食男子会

昨日は施設の俳句サークルの3人で初めての昼食会、和食の店にメンバーのひとりに運転して貰い出かけて来た。

私は入居も俳句サークルの入会も新参だが御二人はそれぞれの先輩に当たる。

何れも私のブログの有難い読者であり当日のブログの中身「江戸時代のヤクザは刀を差してもいいのか?」も話題になった。

俳句についてはサークルの経緯も教えて貰い特に基本を大切にする志向などが分かった

その他の話題は、卓球などの他サークルのこと、お互いの健康関連、蔵書とその始末に苦労したこと、施設に入居した経緯などで良いコミュニケーションの時間であった。

男子会としては高齢者ばかりでアルコールもなく華やぎはまるっきりないが、これはこれでなかなか味があり勘弁願いたい。

和食の店はリーズナブルな値段のチェーン店で量も味も程よく距離的にも施設から近く、また来ようと思わせるものがあった。

 

【兼題の 粕汁作り 頼む朝】

 

🔘近くの県営林では子供の頃のふるさとの山と同じく歯朶(しだ・羊歯)類が繁殖しており懐かしい私の原風景のひとつ。

写真を見ても分かるように歯朶類は地形的な凹地で比較的湿気の多いところに繁殖し易い。

 

 

江戸時代のヤクザは刀を差してもいいのか?

同じ施設に住む方から表題のような「江戸時代のヤクザは刀を差していても問題ないのか?」という質問を受けた。

TVや映画の時代劇では刀を差したヤクザが走り回るが、その刀を咎めるような場面に遭遇したことは全くない。

江戸時代は身分社会であり帯刀は基本的に武士身分にのみ許され、大小一組の打刀(うちがたな)と脇差(わきざし)の二本差しが義務であり特権でもあった。

庶民が帯刀を許されるのは、村役人などを永年勤めたり領主などに対して多額の献金をしたりして、その功績への褒美として与えられるものがほとんどで、一代限り、嫡子まで、永代、などのランクがあり、私が読み進めている厚狭毛利家代官所日記の中でもこの褒美が下される記録が散見される。

本来庶民であるヤクザものが、許されていない刀を差す場面が出てくる背景は、差している刀は一本差しの脇差(わきざし)という建前なのである。

庶民は先の褒美による帯刀の他は、旅に出たり夜間外出の際などの護身用として概ね2尺以下の脇差を帯びることが許されていた。

これを拡大解釈して「これから旅に出る」「少し長い脇差である」といったことで武士の二本差しとは別の一本差し姿が生じたわけである。

私の好きなカラオケ、三橋美智也さんが歌った「一本刀土俵入り」は相撲取りの夢破れヤクザになった男の姿を端的に表している。

時代劇ではこの一本刀を長ドスと呼ぶ台詞が普通に出てくる。ドスとは懐に隠し持ち人を脅す(オドス)のオが省略されて出来たといわれ、通常短刀を指すが、長い短刀(ドス)とはまさに苦しい言い逃れの極みだろう。

 

【餃子には 焼き蒸し競い 冬は水(すい)】

 

🔘近くの県有林の山裾は笹竹が我が物顔で。

熊笹