歴史・時代小説の巨星 生誕100年②司馬遼太郎

2023年に生誕100年を迎える巨星の二人目は作家・司馬遼太郎さん。

初期の西域ものと言われる「ペルシャの幻術師」などから、直木賞を受賞した「梟の城」を中心にした忍者小説、更に「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「坂の上の雲」など男の生き方を描いた歴史小説、その後文明批評とも言える史伝、史論、紀行文、エッセイなど時代と共に作風を変化させいわゆる「司馬史観」を確立させた。

私は自己分析で司馬史観の影響を受けているひとりで、ほとんど全ての著作を読んできた気がするが、初めて出会ったのが中学生の頃1960年代前半なのでちょうど忍者小説から歴史小説の転換期であったと思われる。

その走りである新撰組小説「燃えよ剣」「新撰組血風録」は新撰組ものの原典とも言うべき作家・子母澤寛さんの「新撰組始末記」と共に従来の新撰組土方歳三に対する見方を大きく変える起爆剤になった。

誠に余談ながら子母澤さんや司馬さんの著作が現れるまで新撰組副長・土方歳三は悪役で「ひじかたさいぞう」であった。二人は新撰組のふるさと・武蔵三多摩地方を丹念に歩いて取材し「ひじかたとしぞう」であることを裏付け新たな土方像を造りあげた。そのときの司馬さんのエッセイ「としさんが歩いている」は忘れられない。

私の個人的な自負はこの中学生の頃、司馬遼太郎さんは必ず大きく飛躍する人だと思っていたことである。

司馬さんの作風は歴史や物事を上空から鳥の目で見る即ち俯瞰することにあると言われ全く同感である。

日経新聞の記事では東大阪にある「司馬遼太郎記念館」の館長で義弟の上村洋行氏が司馬さんの作品について次のように語られている。

「全ての作品の根底にあるのは、日本人とは何か、日本とはどんな国か、人間とは何かだった。それが知りたくて(終戦を迎えた時の)22歳の自分への手紙として本を書いていた」

激動の時代を多く描いたのは、「社会が変革する時にこそ、人間の本質が見えてくると考えたのではないか」

明らかに司馬さんの後半生は日本の文明批評家であった。

 

【紅き実が 笹に隠れて 冬の山】

 

🔘歩きの途中、県有林から採って来たつる性植物、直径約10mm位の紅い実、画像検索でも名が知れず。

「正岡子規・よもだのエネルギー球」

文藝春秋の創刊100周年と銘打った新年特大号には101年目の超大型企画として「101人の輝ける日本人」と題が付き「日本人を感動させ、ワクワクさせた人々の最高にチャーミングな素顔がここにある」とした101人のそれぞれを身近で観た人が101のエッセイを載せている。

その中のひとつが「よもだのエネルギー球」と題して「正岡子規」のことを俳人・夏井いつきさんが書かれていてエネルギー球ような闘志と情熱を燃やし続けた人と評されている。

正岡子規は以前も書いたように作家・司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」や作家・伊集院静さんの「ノボさん」「ミチクサ先生」などで身近な存在になっており最近俳句を勉強し始めたおかげで更に近付いたような気がしている。

一方夏井いつきさんは子規と同じ愛媛県の出身でTVの辛口俳句批評で人気を博している。

子規のことを例えた「よもだ」とは愛媛県の方言(伊予弁)で「いいかげん」「ふざけている」という意味でその中には悪い意味だけでなく、親しみを込めて「しょうがないなあ」という苦笑いのニュアンスが込められ、子規の持つ反骨精神や肩ひじ張らずユーモアで生きようとする精神にぴったりの言葉らしい。

夏井さんは子規の「よもだ」の具体例として以下のことなどを挙げられている。

・子規とは血を吐くまで啼くホトトギスの漢名で喀血した自分を飄々として例えている。

・月並みに陥った俳句に異を唱え、革新しようとしたり、短歌の革新や写生文も含めて因襲や理屈と戦っている。

・子規が野球を愛したのはよく知られているが子規の雅号のひとつ「野球(のボール)」は幼名の升(のぼる)とベースボールから発想した。

・子規が死の十二時間前に詠んだ句

糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」と死の寸前にある己を痰が詰まった仏だと客観視している。

 

冬日和 あの日に戻る 涙声】

 

🔘健康公園管理室近くの花壇、これもネメシアの仲間と思われる。

「鎌倉殿VS朝廷・承久の乱の真実」

文藝春秋の創刊100周年新年特大号はさすがに面白い記事が沢山あるがこれもそのひとつ。

夫婦共に東大史料編纂所教授という歴史家の本郷和人氏、本郷恵子氏の承久の乱を中心にした対談を取りまとめた表題の「鎌倉殿VS朝廷・承久の乱の真実」である。

承久の乱NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも物語の最後を飾った京朝廷・後鳥羽上皇と鎌倉・北条義時の争いで鎌倉方の圧倒的な勝利で以後の武士の世を決定つけた。

この対談で私が個人的に面白いと感じた視点が幾つかあり以下に書き留めておきたい。

①北条氏は天皇を指名出来るほどの権力者になりながら将軍に「ならなかった」、「なれなかった」のではない。あえて朝廷の官位という序列の外に自分を置くことで、自分は地元関東の仲間達に認められた東国武士団の代表であると御家人達にアピールする狙いがあった。

承久の乱の勃発を告げる朝廷からの「官宣旨(かんせんじ)」や「院宣(いんぜん)」には義時を討てと書かれてあったが、幕府という呼び名が生まれたのは明治になってからで当時朝廷が政権を倒す命令を発するときには指導者の名前を挙げており義時を討てとは幕府を倒せと同じであった。

③(私が郷里の関係で追跡している毛利氏は本姓は大江氏で源頼朝の創業を助けた大江広元(おおえのひろもと)に行き着く)

大江広元は京の出身で元々文官であった。軍師とは軍事指揮の出来る文官を言い日本の歴史に軍師がいるとすれば黒田官兵衛ではなく大江広元で、社会情勢を見抜き承久の乱で即時京への進軍を唱えたように、どう動くべきか戦略を練ることが出来た。

 

【冬の午後 珈琲とチョコ 手に本を】

 

🔘介護棟の庭シリーズ、画像検索から見ると菊科のクリサンセマムの仲間のような気がする。

「古文書のことば」

日本史を体系的に学んだわけではないので、古い史料や古文書をみているとどうしても解らない言葉や文字が出てくる。

そんな場合は以下のようなことを試みる。

・同じ言葉や文字が違った箇所に出てきているのを見つけ複数の文章で共通する意味合いをさがす。

・辞書やグーグル検索で言葉や文字を当たってみる。

しかしこれらを試みてもどうしても解らないことがあり推測で終わってしまうケースもある。

先日図書館で本を探していると偶然、秋山高志著「基礎・古文書のことば」柏書房刊 を目にし借り出して来て色々と当たってみたがこれは私が日頃読もうとしている「厚狭毛利家代官所日記」など江戸時代の文書の解読に易しくピッタリということが解ってきた。

今まで余り解っていなかった言葉で短時間に解った事例

①上乗~~(うわのり)積み荷と共に船に乗り荷主から一切の責任を与えられた人

②令~~(せしむ・しむ)させる・申し上げる

③定免~~(じょうめん)平均収穫量を基準に年貢を決めること

④治定~~(しかと)確かに・かたく・しっかり

⑤皆済~~(かいさい)年貢の完納・借金の全額返済

⑥頓~~(やがて・すみやか)まもなく・急に突然に

等々

引っ越し後本の購入はきりがなくなるので原則止めていたが、これは役に立つと思いAmazonで調べると新刊本は既に無く、古本は有るようで、新刊本の定価より高い値段ながら背に腹は代えられない心境で直ぐに注文してしまった。

手元に届いた「古文書のことば」

今どき新刊本より古本の値段が高いのはそれだけ価値が認められているからだと思え、大いに活用しようと思っている。

 

【歯ブラシも 心も新た 寒の水】

 

🔘施設の介護棟の庭シリーズ、柊南天(ヒイラギナンテン)と思われる。

 

 

 

 

 

歴史・時代小説の巨星 生誕100年①池波正太郎

2023年は池波正太郎司馬遼太郎という国民的人気作家2人の生誕100年に当たるということで色々なマスコミで取り上げられたり行事が計画されている。

日経新聞の元旦記事第二部でも「歴史・時代小説の巨星 生誕100年」との見出しで紹介があった。

共に1960年に直木賞を受賞しているがその作風は大きく異なる。私は世代的にも両者が精力的な執筆活動を繰り広げた時代を共に生きており、かなりの分量を読んできた自負もある。

池波正太郎さんは亡くなられて33年、司馬遼太郎さんは27年経過しているものの、その作品は全く色褪せず常に文庫本は売れ行き上位にランクされ、ドラマ化も頻繁で広く国民に受け入れられていることがわかる。

池波正太郎さんの代表作のひとつ「まんぞく まんぞく」が生誕100年BS特集時代劇として石橋静河さん主演の女剣士役で最近放送され、本で読んだ印象とは少し異なることを含め楽しく観させて貰った。

池波正太郎さんの三大シリーズといえば「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」で数多くTVドラマ化されているが、私の好きなのは真田家についての色々な作品で別けても真田太平記が面白い。

自分達の力で得た領土を豊臣、徳川の争いの渦中で守るべく父・昌幸、次男・信繁と長男・信幸とが敵味方に別れて奮闘する物語で、これに忍びの者の活躍が加わる。

通常光が当たりやすい次男・信繁(幸村)のみでなく真田家を江戸時代を通じて大名として存続させた長男・信幸にも光を当てて描いているのが素晴らしい。

 

【タイヤ溝  歳月(としつき)ありて                                                                                悴(かじか)める】

 

🔘介護棟の庭シリーズ、これもネメシアの仲間らしい。

娘と孫の訪問

正月明けに娘と孫が訪ねてきた。

孫の方は正月休みに実家に帰り下宿先の大阪に戻る途中母親と一緒に立ち寄ったもので今年の卒業就職が決まっており激励する機会が出来て嬉しい。

娘の方はこちらに一泊し、家内を含めて3人で大阪八尾へ墓参りと東大阪の石切(いしきり)神社へ参拝に出かけてきた。

否応なしに引っ越し前の住所を通ることになるが永年住んだところだけに多少の感慨がある。

娘のお土産は「蒜山(ひるぜん)高原・蒜山ジャジーヨーグルト」、「白桃とチーズのおかやまラング・ド・シャ」それに倉敷の和菓子「むらすゞめ」何れも岡山の名物で一緒に美味しくいただいた。

「むらすゞめ」はクレープのように薄く焼いた外皮で小豆粒餡をくるんだものでコーヒーにもお茶にも合いとても美味しい。

天領・倉敷は米の集散地で米の出来が生活に直結しているため、お盆にはい草で編んだ笠をかぶり豊作を祈って豊年踊りを行った。

その踊る姿が群がる雀のようであったといわれ、この編み笠の形をヒントに明治初期考案されたのが「むらすゞめ」の由来とのことがしおりに書いてあった。

石切神社は正式には石切劔箭(いしきりつるぎや)神社と呼ばれ由緒はこの地方に勢力を張った物部(もののべ)氏に遡る。物部氏は元々鉄器や兵器の製造などを行っており、私の住んでいた八尾でも関連の地名が遺されていてその後軍事氏族として勢力を伸ばした。

神社の名前、劔(つるぎ)、箭(矢・せん)何れも武器であり伝承が充分理解出来る。

大阪辺りでは石切神社は腫れ物(関西弁で、でんぼ)の神様として知られ特に病気平癒のお百度参りが盛んなことで有名であり、訪れた際も熱心に大勢の方々がお百度石を廻られていた。

鳥居越しに見る本殿

百度

 

【お百度の 人群れ疾(はや)き 朝六日(むいか)】

平成の天皇皇后両陛下大いに語る

雑誌・文藝春秋は作家・菊池寛が創刊して今年で100周年を迎えるらしく通常の1.5倍のボリュームで新年特大号が発行されている。

記念の号らしく充実した中身になっているが、そのトップ飾っているのが「平成の天皇皇后両陛下大いに語る」という昭和史家・保阪正康さんの記事で、保坂さんが作家・半藤一利さんなどと共に前後6回皇居を訪問し両陛下と懇談された内容をまとめたものである。

今回の記事はテーマ別にまとめられ数十年後に書かれる「実録」のための資料にも役立つようにとの意図も感じられる。今号では訪問することになった経緯や日常のこと、戦後の生活といったことと併せ昭和史の内「満州事変」が主要な話題のひとつとして挙げられている。

Q:天皇陛下の質問内容   A:半藤、保坂両氏の答え

Q:満州事変についてはどう考えていますか。

A:結局のところその後の日中全面戦争のきっかけであるとして、関東軍が仕掛けた謀略との事変の概略を伝える。

Q::関東軍と東京の陸軍とはどういう関係にあったのですか。

A:関東軍は東京の陸軍省参謀本部の意向を無視してでも満州を占領するつもりだった。東京も彼らの動きに全く気付いていなかったわけではなく多数の賛同者がいた。

等々

半藤さんや保坂さんは陛下の問いかけが「昭和天皇は、満州事変の直前から軍上層部には軍紀を守るように注意を与え、事変後も一貫して不拡大方針を守るように伝えていた。にもかかわらず軍はその意向を無視して暴走、事変が拡大したのはなぜか」という本質的な疑問が隠されていることを感じ、「満州事変は親子二代の天皇(昭和、平成)にとって痛恨の極みに違いない」と結んでいる。

🔘実は私も若い頃から満州事変から太平洋戦争に至る昭和史は「なぜ?」という意味も含め「考える」ことの対象であった。この点から今回の記事はとても読みごたえがあり次号以降の内容を待っている。

🔘記事の全体を読むと両陛下が歴史以外のことも含め色々なことを深く学ぼうとされる姿勢を感じることが出来る。

 

【お年玉 成人なれど 孫なれば】

 

🔘介護棟の庭シリーズ、小菊