歴史のあれこれを追跡していると歴史家の説明を色々読んだり聞いたりしてももなかなか疑問が解けていないことがあり、例えば以下のようなこと等々である。
・大軍を率いていた今川義元が桶狭間で織田信長に攻撃され首を取られるほどの惨敗に至ったのはなぜか?
・長篠の戦いで織田徳川連合軍の鉄砲隊の前面に武田軍は全滅に近いまで繰り返し長時間攻撃を続けたのはなぜか?
・関ヶ原で毛利軍は全く戦わず傍観し徳川の軍門に下ったのはなぜか?
NHK大河ドラマ「どうする家康」が始まり色々とマスコミなどで徳川家康が取りあげられているが、月刊誌・文藝春秋にも歴史家・磯田道史の「わが徳川家康論」が連載されており新年特大号では信長、家康の運命を変えた一戦として桶狭間の戦いが取りあげられている。
戦いの結末で戦国大名の首が取られるという珍しい事件について、なぜそのような異常事態が生じたかが論じられているのだが、そのなかで組織論的に分析している点が要因のひとつとして非常に説得力がある。
戦国大名は大きく二つのタイプに分かれる。ひとつは国衆(くにしゅう)と呼ばれる地域の武士の連合体で、地域、村落ごとに独立性の高い国衆(小領主)がいて緩やかな繋がりを持ち大名に従っている。
この場合兵力数万人とは例えば数十人の集団が千ほど集まっている形で、今川軍はこれに当たる。(わがふるさとの毛利軍もこの様な形態であった)
一方これらの国衆を統合、直属家臣として大名の意志が素早く貫徹出来る体制を敷いた軍団が現れつつあり代表例が織田家であった。
桶狭間の戦いはこの両者の違いが顕著に表れた結果で、今川の軍列が伸びきってバラバラに分散し、本陣に情報が伝わらないうちに、情報や戦闘目的の共有度合いの高い一体になった織田軍に直接本陣を急襲された。
もちろんこの他にも天候や地形、情報などが複合的に影響していると思われるが、説得力のある論のひとつと云える。
【茅渟(ちぬ)の海 冬靄(もや)の底 汽笛呼ぶ】
🔘健康公園管理室の近くに植えられている菊の仲間、画像検索ではヒナギクという答えが出た。