地域のゴルフ会と油日(あぶらひ)神社

昨日は久しぶりの地域ゴルフコンペで滋賀県甲賀市油日のゴルフ場へ。
このゴルフ会は150回以上続いている長寿の会で、年4回としてももうじき40年経過することになる。

しかしメンバーもだんだん少なくなり現在7名、ご多分にもれず高齢化と併せ厳しい状況になりつつある。

春の陽射しに恵まれた快適ゴルフながら、スコアの方は全く不振で最近のワーストを更新、48、54、トータル102、うつむいて帰宅した。特にいちどのミスが次々に連鎖するところが致命的で反省多し。

ゴルフ場でタヌキの出迎え、同じ甲賀信楽焼
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ゴルフ場から山容の美しい近くの山を振り返る、位置的に油日岳と思われる。
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ゴルフ場の直ぐ傍が、形の良さや古さで映画のロケ地に頻繁に使われているという油日神社があり、同乗させてもらっている運転者の方にお願いして立ち寄らせてもらった。
訪れた時も滋賀県の観光PR映画の撮影が行われていた。

通常、八幡、諏訪、春日、など神社の同一の名前は全国に散在するものだが神社のホームページを見ると油日大神の神社は全国にここだけらしく、千数百年の歴史があり忍者の里・甲賀の総社として位置付けられている。

実はこの油日神社には古い記憶があり誰の歴史小説だったか今では定かではないが、織田信長が近江・甲賀郷に隣接する伊賀国を攻めた「天正伊賀の乱」で伊賀側から支援の要請を受けた甲賀武士や忍びの頭(かしら)達が油日神社で談合する場面があった。

実際に拝観すると本当に甲賀武士や忍びが出てきそうな雰囲気を持つ古社で時代劇のロケ地としてのニーズが有ることが良く分かった。

ここ甲賀は行政区分では旧近江国滋賀県になるが、この神社やゴルフ場を含め琵琶湖のイメージが強い近江とは程遠く、むしろ直ぐ隣に当たる大和(奈良県)、や伊賀(三重県)の山が連なるイメージがピッタリ来てしまい、山岳信仰や忍びの歴史が有ることが現地に立つと納得できる。

参道の石燈籠の列
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木製の大鳥居
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門前の標柱と桜
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楼門
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拝殿から奥の本殿を拝観
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社の奥、ご神木の杜
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参道の近くに忍者の呪文
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風力発電、日本は部材に活路

再生可能エネルギーのなかで、私は日本の置かれている条件などから考えて以前から風力発電に注目している。いま高速道路を走ると山の稜線上に大型の風車が回っているのを目にするようになったが、中には故障で停止しているのもある。

海に囲まれている日本は、安定して大規模な発電をするなら陸地より洋上風力が必須と思われるが、メンテナンスが難しいことから考えると、装置や設備の信頼性向上が不可欠な課題といえる。

風力発電設備には三菱重工なども参入していたが、日本市場が立ち遅れていることもあり、米国・GE(ゼネラルエレクトリック)など欧米勢や中国企業に完全に水を開けられ歯がゆい状態になっている。

そんな中、日経新聞の企業面に「風力、日本は部材に活路」の見出しで日本企業が世界の完成品メーカーに技術面で強みを発揮できる部材供給で活路を見いだしつつあることを伝えている。

日本精工ーー大型軸受け
東レーー羽根(ブレード)向け炭素繊維
・三井海洋開発ーー次世代洋上浮体システム
JFEスチールーー洋上風力に使う厚鋼板
等である。

風力発電装置は羽根の直径が70~80m、高さが200m近く、軸受けは直径が最大1m近くもあり、効率化で今後更に大型化が予測される。

この場合に装置が受ける応力は想像を絶するものがあり、特に一時的に加わる応力ではなく、繰り返しの風圧から来るいわゆる疲労現象で、特別な強度対策が必要である。

例えば軸受けが1m近くになることから分かるように、回転部分の潤滑性能は、高荷重と厳しい使用環境下、ベアリングの高い精度と油脂の供給方法など高い技術力が要求される。

このような過酷な条件下で連続運転される装置では、部材の精度を始めとする品質信頼性が勝負であり、技術力がその決め手になる。
ものつくりの質で勝負できる日系企業の生きる道かもしれない。

いま電機産業では完成品は中・韓企業に追い越されてしまったが、部品メーカーはその固有の技術力で充分存在感を示している。
将来拡大が見込める風力発電でも日系企業には部材で頑張ってもらいたい。

それはそうとして私は近い将来、日本の沿岸をぐるりと取り囲む大型風車の大行列を想像しているのだが。

◎最近いろいろな場所で見かけるこれは、図鑑を見るとノゲシのようだ。
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カルタゴの英雄ハンニバル②

3月20日の続き

象と一緒にアルプスを越えてイタリアに着いたハンニバルの勢力は、出発時の4分の1 26000人まで減っていたが、苦難に耐えた精鋭のみが残ったとも言え、これを中核に、ガリア人など反ローマ勢力を糾合してローマ軍に戦いを挑む。

ハンニバルはここから優勢なローマ軍に対し、戦術を駆使して連戦連勝しながらイタリア半島を南下していく。その戦いの基本は、
・ゲリラ戦も使いつつ、本格的会戦では常に相手を包囲して退路を遮断する。
・ローマ本国の市民兵には容赦しないが、同盟国からの動員兵には温情を与え、味方や兵糧を確保する。

その典型例が現代までも各国軍隊の戦術教育の手本として使われている紀元前216年の「カンナエ(カンネ)の戦い」である。
ローマ軍コルネリウススキピオ指揮下87000人、カルタゴ軍50000人

まずハンニバルは自ら囮となって中央から押し出す。
それを見たローマ軍が中央に兵力を集めた隙を衝いて左右から騎兵が回り込んで包囲殲滅した。
このときの死者ローマ軍50000~70000人ほぼ全滅、カルタゴ軍5000人、戦史に残るハンニバルの完勝で戦術家としての名声も確立、「ローマが最も恐れた男」になる。

ハンニバルは首都ローマをあえて攻略せず戦いながら南下を続け、本国からの補給やローマ同盟国の寝返り支援を期待して半島の南で持久戦に入る。

ハンニバルに連戦連敗のローマは事態を打開すべく、カンナエの敗戦で指揮官を勤めた人物の息子スキピオ・アフリカヌスを登用する。

スキピオハンニバルが不在の場合のカルタゴ軍は意外にもろいことを突き止め、イタリア半島でのハンニバルとの直接対決を避けて備えだけに留め、カルタゴの植民地や支援国を掃討すると共に、自ら軍を率いてアフリカに渡りカルタゴ本国を攻撃する作戦に出る。
この発想の転換が結果的にローマを救うことになる。

このままでは危うくなったカルタゴ本国では、休戦協定のためにやむ終えずイタリアでの辛苦の戦果を放棄して、ハンニバルを本国に呼び戻す。

以下次回に。

◎歩きの道端、木の下に咲いている黄色い花はタンポポの仲間のようだ、図鑑を見るとタンポポにも色々な種類があるようで特定が難しい。
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当麻寺(たいまでら)と瓦(かわら)そば

昨日はあまりの良い天気に誘われ、奈良県葛城市にある当麻寺と、その近くでふるさと山口県にゆかりの「瓦そば」が食べられる店に行ってきた。

当麻寺藤原氏出自の中将姫が出家し、一夜で綴織曼陀羅(つづれおりまんだら)を織りあげたという中将姫伝説や、珍しいことに密教真言宗顕教(けんぎょう)・浄土宗が併存していることで有名な大寺である。

この為急遽の事前勉強で検索した寺のホームページは
①古代氏族当麻氏~役行者(えんのぎょうじゃ・山岳信仰の祖)~弘法大師へとつながる縁の「当麻寺 中之坊と伽藍堂塔(がらんどうとう)」(真言宗)
平安時代の浄土信仰の広まりに伴い京・知恩院が建立したことに始まる「当麻寺 奥院(おくのいん)」(浄土宗)

の宗派別に2種類あることが分かり、当然と言えば当然ながら少し面喰らってしまった。

また当麻寺は花の寺としても有名だが、桜には少し早いかなと思っていたのだが、意外にも奥之院のシダレ桜が満開で、ここ数年桜を見た中で最も美しい印象を受け、予期せぬご褒美をいただいた。

境内への入り口仁王門(ここから真言宗)
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日本最古・国宝の梵鐘
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中之坊の書院で抹茶をいただいた、作法はよく分からないままだが、お茶も茶菓子も美味しい。
書院内のしつらえ、趣と落ち着きを感じる
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書院から見る庭
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中将姫が剃髪したお堂
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東塔と西塔、同じ三重塔が離れて建つ珍しい形式
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中将姫像
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奥之院本堂(ここから浄土宗)
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奥之院のシダレ桜ーーー最も見映えの良い時季に出会えた気がして、ただ圧倒されてしまった!
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奥之院庭園、極楽浄土がイメージされている、奥に阿弥陀仏石像
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奥之院 御影堂と大方丈
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当麻寺山号二上山(にじょうざん)と呼ぶ通り、雄岳雌岳の2つの山頂を持つ二上山を西方の背景にして建立されている。
この山は万葉集などで「ふたかみやま」と詠われ、飛鳥大和から西方に当たり、古来西方浄土の入り口とされていた。
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昼食は寺から少し離れた山口県下関にゆかりの瓦そば屋「味のかけはし」へ。
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瓦そばは、日本そばを瓦の上で焼いたもの、明治初期西南戦争に従軍した旧長州藩諸隊兵士等が野戦で食したものがルーツという。
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お土産は老舗名物のよもぎ入り「中将餅」を購入、帰宅してコーヒーと一緒に2個同時にいただいた、甘過ぎず優しい味。
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下駄とコーヒー

日経新聞の最終面・文化欄の4分の1を使い、詩人・平田俊子さんのエッセイが掲載されており興味をもって読み終えた。

「下駄とコーヒー」と題して寺田寅彦が、正岡子規を初めて訪ねた時のエピソードと自分の身の周りの事などをからめて綴ったエッセイである。

寺田寅彦は熊本五高時代の夏目漱石の教え子で物理学者と文学者の双方の資質を持っており、有名な「天災は忘れた頃にやってくる」は彼の言葉だと言われている。

2月16日のこの日記でも書いたように漱石は子規と親友の間柄で、東京根岸で子規が脊椎カリエスを療養する自宅「子規庵」を漱石の紹介で寺田寅彦が訪れる。

平田さんは寺田寅彦が残した「根岸庵を訪(おとな)う記」「初めて正岡さんに会った時」や子規の「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」を読み込んでその時のことを2つ書き出している。

①下駄
寅彦が子規庵を訪れた際に、「玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう」
「玄関には下駄がいくつもあるが男のは一つもなかった」
と書いた。

平田さんは自分の父親が死んだときに慌てて駆けつけた実家の下駄箱の情景と重ね合わせ、当時布団から起き上がることもままならない子規の病状と寅彦の心情に想いを馳せている。

☆玄関を入ったときに見る履き物の状況でその家のことがかなり分かってしまう事は誰しもあるに違いない。

②コーヒー
子規庵で寅彦はコーヒーをごちそうになり、そのことも書いた。
「話半ばへ老母は珈琲を酌んでくる。子規には牛乳を持ってきた」
「御母(おっか)さんがコーヒーを出してこられた。正岡さんには牛乳を持ってきた」

平田さんは子規の書いた「仰臥漫録」には毎日のように牛乳を飲んでいることが書かれているが、コーヒーを飲んだという記述は見たことがないし、正岡家に当時コーヒーが有るのが意外で、食い意地の張った子規にはご馳走を用意しても、自分たちは粗末なものを食べていた母や妹の律(りつ)が自分たちのためにコーヒーを買ったとは思えず、その出所をアレコレ想像している。

☆子規の妹・律さんはNHK司馬遼太郎原作「坂の上の雲」を制作放送したとき、女優・菅野美穂さんが演じてはまり役だったが、脊椎カリエスで苦しみわがままになった子規を、母と共に最期まで献身的に介護すると共に、俳句の弟子や友人など子規を訪ねて来る多数の人たちのために応接に当たった。

☆子規の病臥する部屋は小宇宙を形作ったとよく例えられるが、その宇宙を支えていたのは献身的な母や妹であった。
☆私の好きな正岡子規の俳句
 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

◎近所のシダレ桜が咲き始めた。
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福島正則「弓は袋へ」

加藤廣(ひろし)著「戦国武将の辞世・遺言に秘められた真実」朝日新書 を読み終えた。
「最期の言葉にこそ、本音が宿る」として武将たちが遺した辞世の句や遺言状など一生を締めくくる言葉を集めたエッセイ集である。

著者は金融界や企業コンサルタントで働くかたわらで歴史小説信長の棺」など多数を発表している。
ここで取り上げられている人物は浄土真宗中興の蓮如上人や細川ガラシャなど戦国武将を含め27名である。

この中で私の心に残った一つが、豊臣秀吉子飼いの武将・福島正則徳川幕府に仕掛けられた罠で改易(かいえき・取り潰し)に追い込まれた時の言葉

「弓を見よ、敵あるときは重宝云うべからざる、
 治国なれば袋にいれて土蔵に入るなり。
 我は弓なり、乱世の用なり。
 今治世なれば、川中島の土蔵に入れらるるなり。」
(川中島は改易後の配流地の近く)

中国のことわざに「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる」とあるがまさしく用済みになったものがお払い箱にされる運命は古今東西共通のものかもしれない。

福島正則は秀吉、ねね夫妻に子供同然に育てられ、賤ヶ岳七本槍の一人に挙げられるなど軍功を重ね出世したが、秀吉死後、反石田三成の立場から、関ヶ原で東軍に参加して勲功第一、結果的に徳川家康の天下取りを助けた。
その功で広島49万8千石の大々名に封じられるが、その経歴を徳川氏に疎まれ秀忠時代に城の無届け修復を理由に領地没収、配流となる。

実はこの言葉は初めての出会いでなく、歴史小説家・白石一郎さんに「弓は袋へ」という短編小説がある。
このときの福島正則を描いた作品で数十年前に読んだ記憶がよみがえり、苦心惨憺してその文庫本を戸棚から探し出した。
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福島正則は民謡「黒田節」で吟われた、
♪︎♪︎酒は呑め呑めー呑むならば 日の本一のこの槍を呑み干すほどに呑むならば♪︎♪︎
と黒田家家臣・母里太兵衛に酒を強要した話など、酒乱の逸話がある。

また徳川家の正史「台徳院(秀忠)殿御実紀」には
〈福島左衛門太夫正則 この人資性凶暴にして軍功を誇り 云々ーーー〉などとあるが、あくまで勝者側からの記述であり、先の改易になった時の達観した言葉から見ても割り引いて見ておく必要がある。

福島家ではこの改易騒動に当たり天下に名を遺した。

正則本人は江戸に留め置かれたままで江戸から広島に城受け取りの使者と軍勢が出向いた。

迎えた福島家では家老一同が揃い、
「城は主人の正則から預かったもので、主人の指示がないと開城できない、一戦もやむなし」と突っぱねた。
使者は江戸へ使いを立て正則の書付けを届けさせて無血開城にこぎつけた。

城は隅々まで整理され、掃除も行き届き見事な引渡しであったと伝わる。
正則が部下の人心を掌握していたことは間違いない。

◎近所の桜は開花がもうすぐ、つぼみが膨らんできた。
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ブログを始めて丁度2年

今日は本来ホームコースで競技の予定だったが、春の嵐の予報で急遽キャンセルし、残念な気持ちでこの日記に取りかかっている。

ブログの表紙が少し変わりこのブログを始めた日が2019ー03ー21と表示されるようになり、今日で丸2年経ったことを知ることになった。
更に時間をおいてこのブログの運営会社【はてな】からお祝いメールまで届いてしまった。

途中500日位経過した時点で、それまでの分を抜粋して本にするつもりになり、その作業で一時中断したりして、結局2年間で今日を入れると660回書いたことになっている。

「簡単に始められる」というネットの記事を見て衝動的に始めてしまったような気がしているが、今まで心や記憶に納めていたことが、文字になり残っていくことはとても有難い事かもしれない。

お陰で仕事をリタイアするときに決めた目標の一つ、本の制作を果たすことが出来た。
このブログの記事を抜粋して編集した「厚狭吉亭日乗・ふるさと厚狭&歴史の彼方から」は、今住んでいる市の図書館に置いてもらえることになり、今度帰省の折りには厚狭図書館などにもお願いしようと思っている。

また同級生、旧職場、ゴルフ仲間など色々な人に読んでもらい、感想も届き励まされた。

文章を作ることにはあまり抵抗は無いが、とにかくその日のテーマを何にするかに、たびたび悩んで来たような気がする。イベントや読書の後などは問題ないが、そうでないときは午後になっても書けないときがあり、プロの作家の100分の1くらいはその焦りの心境が分かる気がした。

特に歴史に関わるテーマを決めた後、本を読み返したり調べ直ししたりする作業は私にとって結構楽しい時間になっているかもしれない。

何れにせよ頭とからだの健康維持に向けて、頭の部分の重要な構成要素に成りつつあるこのブログを、毎日には拘らず「継続は力なり」をモットーに続けていきたいと願っている。

◎歩きや家の周りでも見かけるこれは、図鑑を見ると「ノボロギク」のようだ。
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