「北京(ぺきん)の歴史」①

新宮 学(あらみやまなぶ)著「北京の歴史」筑摩書房 刊を読み終えた。著者は中国近世、中国都城史、東アジア比較都城史の専門家で副題が「中華世界に選ばれた都城の歩み」となっているように、北京の起源から中華人民共和国の首都となるまでの歴史を丹念にたどったものである。

何しろ本文だけで411ページの大著で通常の書籍の倍はあろうかと云う文字量があり、読み通すのに休憩を入れたり、Googleの地図を広げたり、人物検索をしたりして、普段の読書の数倍の時間を費やした気がしている。

現役時代中国にも関係する仕事をしてきたことから中国に関する本は多く読んできたが、北京に絞ったものは初めてで新しい知見も多く得られた。

地図を拡げると良くわかるが、中国の中で北京は東北に偏った地勢にある。また名前から見ても漢人は北の都と考えていたことは明らかである。

古代から中国の中心は西安、洛陽などを含む黄河中流域、渭水(いすい)流域であり、中原(ちゅうげん)や関中(かんちゅう)と呼ばれ文明の中心であり、漢民族発祥の地とも考えられてきた。

古代から唐の時代にかけて北京周辺は、燕(えん)国、幽州(ゆうしゅう)などと呼ばれ名前からも辺境という位置付けであった。(幽には「かすか」や「置く深い」という意味がある)

10世紀頃唐の末期、五代十国などの混乱期を経て、長城外の北方民族が軍事的優位に立ち、契丹(きたい)人・「遼(りょう)」、女真(じょしん)人・「金」、モンゴル人・「元(げん)」と相次いで政権を樹立、漢人や前政権の防衛線を突破して、農耕地域と遊牧・狩猟地域との境界線上に近い現在の北京に都を置き、中原の漢人政権は南に追いやられることになる。

元朝末期「紅巾(こうきん)の乱」などを経て漢人政権を打ち立てた「明(みん)」は当初都を南京(なんきん)に置いたものの、骨肉の争いを経て即位した第3代・永楽帝が再び北京へと遷都する。その目的は中華とその外縁の夷狄(いてき)とを統合する「華夷一統」にあった。

その後「明」を滅ぼし満州人が「清」を建国しても当然のごとく北京が首都であり続け、近代になっての辛亥(しんがい)革命、日中戦争の混乱、国共内戦を経て建国された中華人民共和国でも首都である。

著者はこのような歴史的経過を踏まえ終章で『拡大された中華世界を維持すべく首都として選ばれたのが農耕世界と遊牧世界との境界に位置する北京であった。~~それゆえ偉大な中華世界の夢を追い続けるかぎり、首都北京の地位も維持されるであろう。本書の副題を「中華世界に選ばれた都城の歩み」と題した理由もそこにある』と書いている。

エピソードは次回に。

🔘今日の一句

 

餅終えてパンが朝餉の七日かな

 

🔘施設介護棟の屋上庭園、ガザニア、寒い中虫が蜜を求めて。