「幕僚たちの真珠湾」②

昨日8月15日の続き、

国家の曲がり角とも言うべき昭和15年(1940)から昭和16年(1941)にかけての陸軍中枢幕僚が関係した重要施策をピックアップする。

日中戦争を早期に解決するというのが当時の大きな課題であったが、陸軍が国策として提示した「和平基礎条件」のひとつが「蒙疆及び北支(蒙古、新疆、華北)」への永久的駐兵でこれを讓れぬ一線として1941年の日米交渉でも最後までこだわり続ける。この背景にはこの地域の治安撹乱は満州国、朝鮮統治を危うくするとの考えがあった。

・日独伊三国同盟を踏まえ日中戦争を世界戦争のなかの「東亞戦争」で解決しようとする構想があり、そのなかに対英米の南方戦争、対ソ連北方戦争があり、南方(南進)の方は英米を可分として英のみに限定する事、北方(北進)の方は独ソ戦の行方がカギであった。

独ソ戦の行方が判然としない中、資源を求めて南進を優先することになり、これまでの北部のみでなく南部仏印(仏領インドシナベトナム)進駐が計画され1941年7月実行された。

・南部仏印進駐を知った米国は幕僚たちの思惑予想を越え、在米日本資産の凍結、石油の全面禁輸という報復措置を即時に実行する。

・石油のほとんどをアメリカに依存する日本はこの石油の禁輸というほど影響の大きいものはなく、幕僚たちは打開に向けて苦悩することになる。また石油の問題は時間の問題でもあり日米交渉のなかで時間が経過するほど不利になるという戦争の「決意」と「時間」が重大な関連を持ち始める

・日米交渉の最大の障害は中国への駐兵問題であり、アメリカの全面撤兵要求に対し妥協を求めるも不可となり開戦への流れが出来てしまう。

この後近衛首相とルーズベルト大統領との頂上会談構想も原則論が邪魔をして開催されず、近衛内閣総辞職、東条内閣成立と進み開戦が決定されていく。

日米交渉に於ける最終局面でアメリ国務長官が11月26日に提示したいわゆる「ハルノート」は、外務大臣が目も眩むほどの強硬なものであったが、逆に幕僚たちの反応は開戦決意を固めるうえで「天祐」であったと大本営機密日誌に書かれているという。

🔘この本を読み終えて以下二つの感想を持った。

①太平洋戦争に向かう道のもはや引き返せない時点・ポイントオブノーリターンはやはり盧溝橋に響いた一発の銃声「日中戦争」ではないかと改めて思った。

中国からの撤兵は当時の国民感情からしても極めて難しかったと思われるものの、それを成し遂げるリーダーが不在であったことは残念でならない。

司馬遼太郎さん、半藤一利さんなども言われているようにやはり戦前の日本を語るうえで「統帥権」の問題は避けて通れない課題であることを再認識した。

昭和の国策は「統帥権」を手にした陸軍幕僚たちに依って作られていたと言っても過言ではない気がする。

🔘固有の用語も多く読みにくい内容だったと思われるが、終戦記念日に合わせて書けて良かったという思いもしている。

🔘一日一句

 

台風は車懸かりに襲い来る

 

🔘施設の庭、白い百日紅とその木で鳴くクマゼミ