「新街道をゆく―奈良散歩―」

街道をゆく」は作家・司馬遼太郎さんの代表作で全43巻の大作である。NHKではこれを1990年代に一度TV化して放送したことがある。

今回、令和版として「新街道をゆく」と名付けて放送を始め、第一回が「鎌倉殿の十三人」のこともあり関東武者のふるさと「三浦半島記」、第二回は青森県下を歩いた「北のまほろば」、そして今回は「奈良散歩」であり俳優・高島礼子さんが司馬さんの跡を訪ねる。

これにあわせて図書館で司馬遼太郎全集の「街道をゆく・奈良散歩」を借りて読み直しているのだが原作も、TVの方も、多武峰(とうのみね)・談山(たんざん)神社、東大寺興福寺の三社寺を主に取りあげていて全てに触れる訳にもいかないので、私が一番興味がある興福寺のことに少し触れさせてもらう。

興福寺藤原氏の氏寺として発足し奈良遷都以来現在の場所にあるが、藤原氏が朝廷で権力を握り続ける間、現在の奈良公園のほとんどを寺域とするほど規模が大きかった。

平安期興福寺には荘園が寄進され続け大和地方に集中、僧兵を擁し中央から国司がきても相手にせずついに大和一国を私領化した。

源頼朝鎌倉幕府を興したときも興福寺の勢力には手がつけられず興福寺を「大和守護職」とした。

秀吉と光秀が戦った、山崎の合戦で「洞が峠(ほらがとうげ)」の日和見で有名になった筒井順慶(つついじゅんけい)は興福寺の僧兵上がりの大名である。

織田・豊臣時代寺領は大きく削られたが、江戸幕府時代それでも寺領は大名並みの二万石があり、興福寺を構成する二十七の塔頭(たっちゅう)の院主の全てが公家(藤原氏)の子弟であったと言われる。

このような実態(欠陥)が明治維新神仏分離令廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に於いてはなはだしい嵐となって興福寺を襲うことになる。僧は一斉に還俗して神職になることを希望し、敷地の大部分は官に没収された。

当時の記録

『本寺本山既にあれども無きが如く、法音聞こえず、香烟絶え、強欲無慚の輩は、重宝什器を偸(ぬす)みて私腹を肥やすに汲々たる有様にて、中にこれを監督すべき官吏にして、権威を恣(ほしいまま)にして、名画名器を私するもの少からず、ーーー』

長くなるが司馬さんの言葉を転載させてもらうと、『のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀(こぼ)つことによって成立したのである。いまここを散策する私どもが、なにものかに感謝せねばならなぬとすれば、旧興福寺の末期の僧たちの無信仰に対してその意を捧げるべきだろうか。このことは末期の僧たちを侮辱しているのではない。私ども日本人には大なり小なり、旧興福寺の僧たちの気質がある。』

 

🔘一日一句

 

初蝉に遅き学びを叱られて

 

🔘今年の初蝉

 

🔘施設の庭、日陰で少しだけ咲いている、ワスレグサと思われ名前もピッタリ。