鉄道150年 長州人・井上勝(いのうえまさる)

文久3年(1863)5月10日長州藩は攘夷の先がけとして下関海峡を航行する外国船を砲撃した。

その同時期、同じ長州藩は5人の有為な人材を英国へ藩費5000両を使って密航させ、制度や技術を学ばせることを決め彼らは5月12日横浜を出航、上海を経由して同年9月ロンドンに到着する。

このように敵であっても学ぶところがあれば教えを乞うしたたかさが長州藩の真骨頂と云えなくもない。

この5人が後に長州ファイブと呼ばれ明治政府の政治家となった伊藤博文井上馨、技術官僚となった井上勝、山尾庸三、遠藤謹助である。

今年は鉄道開業150年ということで明治5年(1872)新橋・横浜間に鉄道が開業して節目の150年に当たるらしく、JR各社のキャンペーンやNHKでも鉄道番組が集中して放送されたりしている。

(私は鉄道番組の中では「六角精児の飲み鉄本線・日本旅」が好きなのだが)

これらのなかで日本の鉄道の父とも云われる井上勝が紹介されると嬉しいがその気配がなく、このブログで少し紹介することにした。

井上は長州藩の中核となる大組(おおぐみ)士の家に生まれ同じ大組士の家へ養子に出た。その後長崎伝習生を経て幕府の洋学教育機関・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)でも学ぶ。

その後藩幹部であった周布政之助(すふまさのすけ)に洋行希望を伝え認められたことで長州ファイブの一員になる。

英国ではロンドン大学で英語や化学鉱物学物理学などを学び、更に鉱山や鉄道の現場でも技術を習得した。

明治元年11月帰国した後新政府に出仕し造幣や鉱山の仕事を経て、鉄道建設が政府によって決定された時を同じくして、鉄道を担当する技術官僚としてスタートすることになる。

明治4年鉄道頭(てつどうのかみ)に就任以後は生涯一貫して鉄道事業を担当し京浜、京阪神を手始めにした鉄道の全国普及に尽力した。

その後職名の変遷はあるものの技術官僚のトップとして鉄道事業を牽引し続け、退職後は汽車製造会社を設立するなどした。

明治43年(1910)鉄道院顧問として渡英中に長州ファイブとして渡った同地で客死した。

私はまだ見たことはないが東京駅「丸の内前広場」には鉄道の父として井上勝の銅像が立っているとのことである。

結果的に見ると長州藩の先見性が日本の鉄道普及に大きく寄与したと言える。

🔘昨日いつもの健康公園でフルートを練習している人に出会った

 

【秋空に  フルート響き  虫と聞く】

 

🔘施設の庭、季節が少し違うような気がするがキンセンカではないだろうか?