水戸天狗党の乱と長州藩内の争い

6月15日のこのブログで、幕末「天狗党の乱」で水戸藩の勢威と世評が地に落ちた事を書いたが、ふるさとの長州藩も一歩間違うと党派抗争で自壊した水戸藩と同じ道をたどる瀬戸際まで行った歴史がある。

天狗党が挙兵した元治元年(1864)は長州藩にとっても多事多難な年であった。
・6月5日池田屋事件 新選組襲撃で長州藩士・吉田稔麿等が闘死。

・7月19日京都に押し上った長州軍は「禁門の変(蛤御門の変)」で敗退し長州藩は朝敵とされる。

・8月2日幕府による第一次長州征伐の大軍が発向。

・8月5日4ヶ国連合艦隊が長州を攻撃し下関砲台占領。

・11月11日長州藩政府(保守派)は正義派(革新派)を排斥、「禁門の変」責任者の3家老を自刃、4参謀を斬首し幕府に恭順する。

・12月16日高杉晋作を指導者にして正義派の一部が藩政府転覆を期し下関で挙兵。

・翌年1月7日~16日保守派藩政府軍と奇兵隊等諸隊を中核にした正義派軍が大田・絵堂(萩と山口の中間地点)で交戦、諸隊有利で進んだ状況下、中立派(鎮静会と称した)が結束して調停にのりだす。
ちなみにこの時保守派藩政府軍・撰鋒隊総奉行は厚狭毛利家世子・宣次郎であった。

・2月2日藩主を説いて保守派政府を交代させ高杉等を中心とする藩新政府を樹立して藩論を幕府に対して「武備恭順」として統一した。
(武備恭順とは表面上は幕府に従うが、武力を充実させて何時でも戦えるよう準備を進める方針のこと)

この藩政府が以後、薩長同盟、第二次長州征伐、鳥羽伏見~戊辰戦争へと至る道を一貫して指導することになる。

このような経過を見ていくと長州藩・防長2ヶ国が党派対立を超えて一致結束して明治維新を迎えることが出来たのは、対立のピークで互いに犠牲者は出しながらも壊滅的な大量殺戮などが起きる前に中立派が主導して藩論をまとめ統一出来たことが極めて大きい。

政治的な対立は有ってもそれを乗り越え国(藩)論を統一していくことが如何に大事か、現代にも通じる。
それには中立的な党派の存在が重要であることも示している。

◎図書館脇のこの花はヒオウギスイセンという名前らしい。
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