街道をゆく「神戸散歩」

大阪から旧播磨国の東端、兵庫県神戸市の西の端に当たる地に引っ越してきたので周辺の勉強を兼ねて司馬遼太郎さんの「街道をゆく」シリーズの関連する三章を読み直しているがその第三回最後になる「神戸散歩」

司馬さんは当時住んでいた大阪と神戸の街の性格や機能の違いからスタートし、街の成り立ちである開港場、外国人居留地、そこに長い間住む人のことなどを書いている。

私は司馬さんが住んだ大阪の東域、東大阪の小阪から遠くない八尾から引っ越してまだ数ヵ月であり、大阪と神戸の違いについて断定的に語る資格はないがここまで気付いた点はわずかに、
・横断歩道を渡ろうとするとき、止まってくれる車の割合は明らかに神戸の方が多い。
・地域性があるかも知れないが全般に神戸の方が道が広目でゆったり感はある。しかし坂道が多い。
などだろうか。

江戸時代前期兵庫は尼崎藩領であったが、後期になると幕府直轄地になり尼崎藩の陣屋が大阪与力と呼ばれる大阪から派遣された幕府役人の駐在所に使われた。

この為兵庫商人は大阪奉行所の背後にいる大阪の株仲間(既得権商人同業者の集まり)に実質支配される形であった。
これが幕末の兵庫開港で様相が代わり居留地としての性格が出てくる。
外国人の貿易事務と居住地の環境感覚を官や地下人(じげびと)が重んじたことから都市の個性や市民に共通する都市感覚が出来上がった。

ただ以前このブログでも触れたことがあるが開港と同時に出来た居留地はその後地形上の制約から神戸村に敷地を持ったため兵庫の呼称が薄れ神戸と云う地名が前面に出てくる事になる。

開港早々、新政府の兵庫行政を受け持つべく赴任したのは4ヶ月後に兵庫県知事になる長州の伊藤博文であった。
彼が県庁を神戸に置こうとしたところ、兵庫の名主年寄などが協議して、「兵庫開港といい、兵庫県というのに県庁を兵庫以外に転じることは名実に反する」として請願したが受け入れられなかった。

これによって「神戸」がこの一帯の港と街を代表する呼称となり同時に引きずっていた江戸時代からの大阪の商権からの独立も果たすことになる。

こうしてみると大阪から神戸に引っ越すと云うことは、単に地理的な移動のみでなく文化的な変化の影響を受ける側面が強くあると云うことが良く分かり、何かしら今後の生活の指針のひとつになったような気がして自分なりに観察してみようと思っている。

🔘ここ数日海の見通しはあまり良くないが、工事船、クレーン船が昨日と今日1艘ずつ、タグボートに引かれて大阪湾から明石海峡方面瀬戸内へ向かっている。

こういう船は長距離の移動は自力では無理な設計になっているようで引き船・タグボートでの移動が必要らしい。
また構造から見ても移動に当たって悪天候は絶対避けなければいけないのだろう。

それにしても船の様々な形の違いには感心させられる。