厚狭毛利家代官所日記㉑文久2年(1862)③村継ぎの事例

厚狭毛利家の民政記録・代官所日記を現代文に直す。今回は11月26日のこのブログにまえがきとして書いた「村継ぎ」制度の具体例を3件書き出す。

①4月4日の記録 船木市(ふなきいち)町役人から代官所への届け、

安芸国(広島県)海田郡海田駅新町 三国屋幸助の娘 きぬ と云うもの、奉公の為去年3月国元を出て下関で働いていたところ図らずも病気になり、国元へ帰りたいとのことで今年3月23日下関を立ち船木まで来たところで病気が重くなり歩くことが出来なくなったと申し出があった。

早速病体を見て宿で保養をさせたところ少々快方に向かったが歩行が難しく、そのうえ路料(お金)も無いので村継ぎ送りにしてくれと願いを受けました。
経過を書付にしたうえで籠(かご)に乗せて今日船木から送り出しました。

②7月6日の記録 逢坂村(あいさかむら)庄屋から代官所への届け、

豊後国(ぶんごのくに・大分県)杵築(きつき)秋手郡庄屋原兵衛管内の畔頭(くろがしら)茂吉組百姓仙吉の弟新平と云う者、今年2月国元を立ち、諸国神社仏閣順拝に出て追々帰国しようとして私の管内まで来たところで気分が悪く、歩けなくなり難儀していると申し出があった。

早速見分したところ相違なくまた国元の寺往来手形を所持しており、食事を与え介抱していましたが急に良くなる様子はありません。
片時も早く国元に帰りたいとの願いながら路料貯えも無いので御慈悲を以て兄仙吉のところまで村継ぎ送りをして欲しいとの願い出から、今日当所から籠(かご)で送り出す事をお届けします。

③7月22日の記録 船木市町役人から代官所への届け、

備後国(びんごのくに・広島県)三坂村庄屋源九郎支配の伐助と云う者、4月に国元を出立 肥後(熊本県)清正公(せいしょうこう・加藤清正を祀る社)へ参詣しての帰り掛け、昨日当所まで来たところで病気となり難儀していると申し出があった。

早速病体を見たところ至って重い様子で、宿で腹薬を用いて保養を加えたところ追々快方の様子はあるものの急に歩行は出来るようにはならない中で、片時も早く国元へ帰りたいが路料賄い分もなく村継ぎ送りにして国元まで送り届けて欲しいとの願いであり、今日籠に乗せて送り出しました。

☆これら病人の送り出しと併せ、旅人の死亡も散見され例えば
・同年5月29日の記録に、紀州(和歌山県)の高野山領の百姓夫婦が日本廻国(日本のあちこちを廻る)の旅に出て、逢坂村で妻が病気で死亡したことが庄屋から代官所へ届けられ、見分の為役人が出張している。

◎今も昔も前途の困難さが想定されるなか、旅に出たい旅に出る必要があるという状況に変わりがないことが良く分かる。
しかし娘の独り旅や夫婦で日本廻国など、困難が想定されるなかよくぞ決断したなと私には思えるのだが。

それもこの当時江戸幕府の御触れ等が地方まで行き届き、旅人の安全がかなり維持されていたことに依るものと考えられる。しかし幕末の混乱期はもう目前に迫っている。

◎ネットフェンスからのぞく鮮やかな白い菊