厚狭毛利家代官所日記のまえがき・村継ぎ

封建制の江戸時代は全国に各藩が分立し独自の行政を行っていたので、藩をまたいでの旅は制約が有るように思われるが、時代の半ば頃になると伊勢神宮への「おかげ参り」をはじめとした神社仏閣への参詣旅行が娯楽も兼ねて庶民の間でも行われるようになってきた。

また商売に於いても全国的なネットワークが見られ、以前のこのブログにも書いたことがあるが、厚狭毛利領内の商人が東北地方まで出掛けるようなことが当たり前になってきた。

このような旅が増えるなかで医療体制は脆弱で、またその医療も漢方主体で西洋医学が実用になるのはもう少し先の事で、旅人の病気や行き倒れが現代と違って頻繁に見られることになる。

幕府は治安維持や儒教の教えなどから、これらの「行旅難渋者(こうりょなんじゅうしゃ)」を救済する必要を感じて数度にわたって御触れを出したが、明和4年(1767)それまでのものをまとめて「旅の病人の取り扱いの基本の御触れ書き」を出し各藩にも指示した。

その原則は〈往来手形を所持しているが、お金もなくその土地で倒れた病の旅人〉はその土地の住人に面倒を見させるというもので、旅人が望む場所へ順に「村送り」するというものが基本になっていた。

村送りとは街道沿いの村から隣村まで書類を付けて本人を送り、これを繰り返すことで目的地までたどり着けるようにするもので、各藩はこの御触れに従って各村に指示した。

長州藩ではこれを「村継ぎ」と呼んでいたようで、領内に旧山陽道が通り、本宿・船木、半宿・厚狭を抱える厚狭毛利家の代官所日記にも度々この「村継ぎ」の記録が出てくるようになる。後日その記録例を現代文で書き直す事にしている。

然しこの「行旅難渋者救済システム」はその費用や時間は全て各村の負担とされ、云わば「言う方は簡単だがやる方はたまったものではない」典型的なもので、宿場などに課せられていた夫役で有名な助郷(すけごう)などと併せ、村が疲弊していく原因の一つとなっていく。

◎散歩道のそばの椿(?)の木
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この花は中でもとてもきれいに咲いている
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