「街道をゆく」・上杉と毛利

街道をゆく」は作家・司馬遼太郎さんが1970年代から20年以上にわたって「週刊朝日」に連載された歴史紀行文学と言えるもので当時から「週刊朝日」の看板だった気がする。

その後単行本や文庫本になり実に全43巻を数え、私も一通り買っており、先日8月11日のこのブログに『東国の雄「上杉景勝」』を書いた際は第10巻「羽州街道」を書棚から探して関連部分を照合した。

どうも私は後始末が苦手でこの本が机の上に放り出したままになっており、つい手に取って最後まで読む事になってしまった。
やはり「街道をゆく」は傑作であり時代を超えて残っていくだろうと今更ながら感じてしまった。

羽州街道とは旧出羽国(でわのくに・山形県秋田県域)を南北に結ぶ街道で、江戸時代上杉氏が領した山形県米沢市辺りの紀行で当然ながら藩祖上杉景勝米沢藩のあれこれが多く出てくる。

この中でつい多くの内容を記憶したくなり、ポスト・イットをペタペタ張ってしまったが字数の関係でその中の1箇所、上杉家が関ヶ原の敗戦を受けて会津120万石から米沢30万石に減封された話から萩毛利家との共通点などに及んだ部分を少し長いが書いておきたい。

関ヶ原処分では形式上西軍に味方した毛利氏も同様な憂き目に遭っている。~~減封されても大封時代の家臣団がほとんど退転せずについてきたのも、上杉家と事情が似ている。

以後百年ほどのあいだ、毛利家は士卒もろとも極度に窮乏し、徳川氏への恨みをひそかに充填しつづけたが、一方において干拓事業を瀬戸内海にむかってのばし、産業を興し、下関港を中心とする利益をおさえ、幕末においては米作だけで百万石の穫れ高があるといわれるほど富裕になった。

この経済的実力がこの藩をして倒幕勢力たらしめる最大の条件になったのだが、これとは逆に上杉家は破産寸前の状態をつづけた。このことは、瀬戸内海岸の生産と商業にめぐまれた場所にあった長州藩と雪ぶかい東北米沢盆地にとじこめられていた上杉藩との立地条件のちがいであろう。」

関ヶ原敗戦における戦後処置、潔さ、領内仕置等当時の上杉家と毛利家を比較すると直江兼続の存在もあり圧倒的に上杉家の方が優れているように見受けられる。
その250年後幕末、明治維新を考えると確かに環境が与える影響の大きさについて深く考えざるを得ない。

◎歩きの途中、中学校の裏庭の木に実が成っている。
多分柘榴(ざくろ)ではないだろうか。
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◎「街道をゆく
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