「秀吉の手紙を読む」と文書の改ざん問題

染谷光廣著「秀吉の手紙を読む」吉川弘文館刊を読み終えた。
f:id:kfujiiasa:20210511120100j:plain
著者は東大史料編纂所教授を長く勤め、日本の歴史史料の集大成ともいえる「大日本史料」編纂(へんさん)の織田信長時代主任担当であり、2003年死去された。

豊臣秀吉の自筆文書は約120点、右筆(ゆうひつ:秀吉側近の書記)文書は約1万点残されているそうだが、このなかから秀吉を正しく認識する、或いは実像を探求するため、秀吉が織田信長上洛後京都奉行を勤めていた時代から、死去する直前迄、24篇の私的、公的書状を選択し、同時代の別史料なども並行して活用しながら解析に努めたものである。

私が秀吉に持つ大きな疑問は前半生と晩年の所業になぜこれほどの落差があるのかということなのだが、残念ながらこの本ではその部分の理解には至らなかった。

然しこれらの解析を通じ、秀吉が日本史上傑出した英雄であったことは、否応なく再認識することは出来たように思われる。

本筋から外れるかも知れないが、この本のなかで著者は史料の2つを挙げてそれぞれの事情から文書がその当時(後日の改ざんではなく)意図して変えられている事を示されている。

①秀吉の右筆として有名な大村由己(おおむらゆうこ)が、秀吉が別所長治を滅ぼした顛末を書いた「播磨別所記」で秀吉の所業を「人間抜群の主」などと過度に褒め称えている文章に別所長治切腹直後の天正八年正月の日付けが記されている。

然しこの時信長は生きており、信長の指揮下で別所軍に対した秀吉が、立場上このような表現を書けるわけがなく、これは信長が死んで後、秀吉が大村由己に命じて自分を脚色するため書かせたと、他の史料などをも傍証にして分析し断じている。

②秀吉の妻おねの実家から発見された古文書で、秀吉が「左近衛権少将(さこのえごんしょうしょう)」に任ぜられた事を示達する公式文書・口宣案(くぜんあん)の日付けが天正10年(1582)10月3日になっているが、実際の昇進は各種の史料から天正12年である。

公式文書がなぜ実際より2年も前に発行されたようになったのか、それは実際に少将に昇進した天正12年のわずか1年後秀吉は関白となり、明らかな異常で急速な昇進を時間的に不合理にしない為に、わざわざ2年も日付けを遡って作成されたと分析判断されている。

本物の歴史史料でも権力者の都合などで意図して変えられているケースがあることを、心して見ておかなければならないと強く感じた事例と言える。

今もニュースを賑わしている、「文書の改ざん問題」は、権力者の指示、部下の忖度など様々だが、古くからある普遍的な課題であることがよく分かる。

◎歩きの途中、近くの畑のねぎ坊主
f:id:kfujiiasa:20210511120348j:plain