「別所一族の興亡」・播州三木城の戦い

橘川真一著西川卓男校訂「別所一族の興亡・播州太平記と三木合戦」神戸新聞総合出版センター刊を読み終えた。

播磨国(はりまのくに)の東端に移り住んでまだ一年に満たないが少しずつ地理を含めて身近になりつつあるような気がしている。

播磨国播州(ばんしゅう)の歴史のなかで戦国時代のトピックをあげるとすれば何といっても最大のものが織田信長の現地軍司令官・羽柴秀吉に対抗した播州の有力大名・別所氏の三木城籠城戦で、「三木の干殺し」といわれる凄惨な戦いと、城主・別所長治一族の切腹で家臣一同を救った散り際の見事さで今に語り継がれ、播州に三木姓が多いのはこの戦いを逃れた人々が子孫に語り伝え、創姓の際にこの事を活用したことによるといわれる。

この本は地元の研究者と新聞社が地元に伝わる軍記本「播州太平記」その他を活用して現地調査を交えこの三木合戦の始末を書いたもので私も色々と新しい知識を得ることが出来た。

①この本を読みながらパソコンでGoogleの地図を呼び出して地図上に合戦の推移を当てはめてみたが、別所氏の勢力範囲は広大なもので東は神戸市西区、西は加古川高砂辺りにまで及んでおり、三木市にある三木城を助けるべく東は石山本願寺、西は毛利氏が食料搬入などの支援を行っている。

②別所氏はこの辺りに沢山の支城を有しており秀吉はこれを一つ一つ潰していき三木城のみを残し周辺を封鎖、毛利氏や本願寺からの救援を遮断した。

③別所氏は南北朝時代からの播磨守護職・赤松氏の出自で赤松の別所殿(分家)と呼ばれ別所を称したことに始まるようである。

④別所氏は当初織田信長と懇意であったがその後離反した理由は様々云われているが、兵庫県史によれば所領を維持していくのには織田か毛利かを考え結局毛利を選んだとしており、その背景としては播磨での名門としての意地と自信過剰、本願寺と毛利への過大評価がある。

天正8年(1580)正月三木城では数千人の餓死者が出る有り様となり、戦う気力も失くなり遂に別所長治は一族の自刃で城兵や籠城の領民を助ける決意をして秀吉に申し入れ秀吉は即座に城兵の赦免を決めた。

長治の辞世は

「今はただ恨みもあらじ諸人の 命にかはる我身とおもへば」

🔘この見事な最期で播磨国別所氏の三木城伝説が始まったように思われる。

🔘現在の三木城址、本丸跡

 

【春もやに地図を片手の播州史】

 

🔘健康公園のヒメユズリハの黒くて小粒な実