「金ヶ崎の退(の)き口」

最近NHKでは大河ドラマを盛り上げようと色々な番組で徳川家康に絡めた企画を立ち上げているが、これもその一つで歴史番組「英雄たちの選択」で家康絶体絶命と前置きして『「金ヶ崎の退き口」の真実』を放送した。

退き口とは負け戦や不利な戦いから戦場を離脱する撤退戦・退却戦の事である。今まで勇敢に戦っていた兵士達がいざ背中を敵に見せて退却するとき恐怖で一杯になり古文書に書かれてあるように

「親は子を捨て家来は主人を知らず我一番にと引き行く」「進む時は鉄壁をも砕く猛勢も退く時は波の声も敵の寄るところと恐れをなし」

という光景が現れる。

史上最も有名な退却戦は「島津の退き口」といわれるもので当初1500名程度の兵力で参戦した関ヶ原合戦で、負け戦が決定的になった薩摩の島津義弘が、残った数百名で血路を開いて本国に戻ろうとしたが、全軍の内義弘と共に生き残ってたどり着いたのは者は50人前後だったと言われる。

「金ヶ崎の退き口」はよく金ヶ崎の殿(しんがり・退却戦時の最後尾)とも呼ばれ木下藤吉郎(豊臣秀吉)が自ら志願して困難な局面を打開したことが流布されているが、実際には徳川家康の方が最も危ない局面であったことを種々の史料などを基に読み解いていく番組である。

永禄13年(1570)織田・徳川連合軍は越前国(福井県)朝倉義景を攻めるべく敵地に入ったところで、信長の妹婿・北近江(滋賀県)の浅井長政が朝倉支援で蜂起したとの知らせが入る。

このままでは朝倉浅井から挟み撃ちになることを恐れ信長は京へ供廻りのみで脱出し、主君を逃がすべく木下藤吉郎が殿を志願した。

しかしこの時越前の一番敵地深く入っていたのは徳川家康で、徳川軍は防御陣地のある若狭国(わかさのくに・福井県)国吉城まで約10kmを朝倉軍の追跡をかわしながら退却に成功する。

この時点で木下軍は朝倉軍の包囲を受けて苦戦中であったが、家康は危険を省みず引き返して木下軍を助ける決断をし両者共に何とか撤退し京にたどり着く。

戦国の三英傑、信長・秀吉・家康が初めて揃い踏みをした合戦で各々が自分らしい身の処し方を現した戦いである。

番組ではこの時の家康の行動を以下のように総括している。

・待ち構える強大な敵・武田を含め世に徳川軍の強さをアッピール出来た。

・この律儀さが戦国武将の心をつかみ後の天下取りの布石になった。

🔘何れにせよ進むときではなく、物事から撤退するときに人や組織の本領が出てくるのは間違いないようである。

 

【凪の春航跡ひとつ海を裂き】

 

🔘近くの花壇のアリッサム