「国難の商人 ・白石正一郎の明治維新」

宮本雅史著「国難の商人・白石正一郎明治維新産経新聞出版刊 を読み終えた。

白石正一郎は全国区とは云えないかもしれないが山口県などではよく知られた人物で幕末から明治維新にかけて下関を拠点にした商人である。

当時赤間関(あかまがせき)と呼ばれていた下関は、九州・壱岐対馬五島列島への西海航路、瀬戸内航路、北海道・奥羽・北陸日本海から下関を経由して兵庫・大阪に達する北前航路の三つの航路の中継地として賑わい問屋・倉庫、町屋等が立ち並んでいた。

白石は長州藩支藩清末藩が管轄する下関の竹崎浦で荷受け問屋を営んでいたが、西郷隆盛との出会いを皮切りに、西国各藩の勤王の志士公卿など400人を超える人物と縁を持ちそれぞれを身代をかけて支援した。

また高杉晋作奇兵隊を結成したのも白石邸であり後に自分も弟と一緒に奇兵隊に入隊する。奇兵隊へは高杉晋作生存中からその死後に至るまで後援し続けた。

この本は自らの信念で尊皇攘夷思想に傾倒し、その資産を傾けることを厭わず、国事に邁進する人々を支援した商人の一生を書いたものである。

白石は明治維新が成就した後も自らは栄達を望まず赤間神宮宮司として生き、非業に倒れた志士達の顕彰や鎮魂に心を砕いたといわれる。

また維新史の重要な史料とも云え評価の高い、安政4年(1857)から明治5年(1872)にかけての「白石正一郎日記」が残されている。

作家・司馬遼太郎さんはその著作「街道をゆく・長州路」のなかで白石正一郎のことを以下のように書いている。

『(維新後)生き残りの長州志士は東京へゆき、どうみても三流の人物でしかないという連中まで廟堂に列したが、落魄した白石をかえりみる者がなかった。白石のほうも、いまさら勘定書を出すような人物ではなかったらしい』

『幕末にあらわれた長州人のなかでもっとも清潔なひとりであったということが想像できる』

🔘当時の下関は長州藩にとって極めて重要な位置付けで、ここに置かれた越荷方(こしにかた)と呼ばれる役所の収益が明治維新の原動力になったと言っても良い程で、この地は長州藩とその支藩である長府藩にその権益がありトラブルの一因ともなっていた。

ここに同じ長州の支藩である清末藩の飛び地があったことはこの本で得た新しい知識である。

 

【家移りは御内裏様を供に連れ】

 

🔘画像検索によるとこれはレンテンローズという名の一種のようだが。