中断中のひとりごと・三木城址へ行ってきた

今日は寒風のなか、播磨に住むからには一度は行かなければと思っていた兵庫県三木市にある三木城址に行ってきた。

兵庫県に来て二年近くになり、海沿いの辺りには少しずつ慣れて来たような気がするが北の山手は全く土地勘がなく、車は遠慮して電車を利用した。

やはり電車では大きく回り道になるようで、シャトルバスで市営地下鉄の学園都市に出て、湊川経由で神戸電鉄を利用して片道約1時間半かかってしまった。

湊川は初めて通過したが、南北朝時代南朝方の楠木正成足利尊氏に敗死した地で、子供の頃から「湊川合戦」の記憶があり、駅名アナウンスに何か旧知の響きがある。

三木城の名前が歴史に深く刻まれたのは云うまでもなく戦国時代末期の「三木の干殺し」といわれた凄まじい籠城戦であり、播磨国ひいては兵庫県では連綿と語り継がれている。

私も2023年2月10日『「別所一族の興亡」・播州三木城の戦い』の記事など既に何度かこのブログで触れており、今回は見学と写真撮影が目的であり歴史経過は重複するので最小限にしておく。

東播磨の旗頭で守護的な位置付けであった別所氏が当主・長治のもと、武士、領民を含めて一年十ヶ月にわたって立て籠ったといわれることが、自分の足で城址の周囲を歩いてみて規模や構えを実感し良く理解出来た。

本丸跡

本丸跡に建つ別所長治の騎馬像

本丸跡に建つ別所長治の辞世碑(享年は諸説あるが少なくとも20代)

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかはる 我が身とおもへば」

妻子も含む一族の自害の代わりに城に籠った将兵や領民の助命を願い、秀吉に聞き届けられた際の心情が溢れる。この潔さに依って播州一円に三木籠城戦が語り継がれることになる。

本丸跡から見る三木市街、手前は堀の役目も果たす美囊(みのう)川、この川は加古川を経て播磨灘へ注ぐが、籠城戦の初期、西の毛利家から支援のために加古川を遡って物資を搬入したという史実が実感として迫ってくる。

本丸跡から約300mくらい離れた二の丸跡、右手に三木市立歴史資料館がある。

二の丸側から本丸方向を見る

別所長治が自害する際に住職に後を託したとされる雲龍寺、本丸跡から約500mくらい離れているが、ここも城の構えの内にあった。

雲龍寺内の別所長治夫妻の首塚山茶花の赤が美しい。

🔘今日の一句

 

強東風(つよごち)が鬨の声して三木城址