ふるさと厚狭の惣社(そうしゃ)八幡宮

ミネルヴァ書房が発行しているミネルヴァ日本評伝選シリーズは吉川弘文館の発行する人物叢書(そうしょ)シリーズと並び、史料に裏付けられた伝記集として双璧と思われる。

その日本評伝選シリーズの一冊、「毛利元就/武威天下無双、下民憐憫の文徳は未だ」岸田裕之著を読み始めている。

毛利元就は主君大内義隆を討った陶晴賢と、中国地方の覇権をかけて弘治元年(1555)厳島合戦を戦い勝利、その後大内氏、陶氏の本拠地・防長2州(山口県)に攻め込み平定する。

毛利氏が防長両国を平定し、すみやかに実施した政策の一つに牢人米がある。大内氏旧臣を救済して民心の安定を図るため、一定の税を取り立てこれを支給する。

本のなかで、この政策を紹介する例として、長門国八幡宮(厚狭惣社八幡宮)大宮司・幡生右衛門尉(はたぶうえもんのじょう)は、毛利軍の防長進攻に当たって忠義が有ったので、牢人米免除を毛利家重臣筆頭・福原氏が認めたとする文書が紹介されている。

これを見て以前古本屋から購入した「厚狭惣社八幡宮文書の写し」や、「山陽町史資料編上巻」に所載の惣社八幡宮文書を見ていくと確かに同じものがあった。
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厚狭惣社八幡宮は厚狭の郡(こおり)地区、厚狭毛利家居館と厚狭川舟運の要地・下津(しもづ)の中間地点に位置し、昨年帰省して参加した「古地図を片手に、まちを歩こう/2020、10、5この日記参照」で下津・洞玄寺への道中で参道前を通ったが、時間の都合で本殿まで行けなかった。
参道前から本殿方向を見た写真
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「山陽町史」に書かれてある「寺院・神社の沿革」によると、惣社八幡宮鎌倉時代に厚狭の地頭(じとう)であった箱田広貞が、文治3年(1187)鎌倉・鶴岡八幡宮を板垣の津(現在の下津)に社(やしろ)を建てて勧請、社職にも補せられたがその後箱田氏が滅亡、大宮司職は幡生氏に移った。

大内氏の時代を経て毛利氏の時代、傘下の三沢氏が厚狭の給領主となると、それまでの社地を三沢氏居館に明け渡し現在地に移った。
その後も毛利氏の庇護(ひご)を受け寛永2年(1624)の検地では社領10石。

私の生まれた厚狭鴨庄は、惣社八幡宮のある地点から南北に遠く、云わば厚狭の端から端で、数年前にようやくその存在を知った。
それがこのように読書の過程で突然深く出会い、毛利氏の時代にもその存在感が確固としてあったことも分かった。
歴史を追いかけていると時折このような嬉しい時間に遭遇する。

◎我が家の車庫横の変わった形の花(名前?)
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