「司馬遷(しばせん)」と「李陵(りりょう)」②

4月4日の続き

1942年に33歳の若さで亡くなった作家・中島敦の全集は全3巻で昭和51年(1976)筑摩書房から発行されている。
司馬遷と李陵2人の絶望状態からの生き方を書いて、遺作となった「李陵」は、第1巻に収録、旧かな使い、旧漢字で戦後生まれには大変読み辛いがこの機会しかないと思い何とか頑張って読み終えた。
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史実に即したうえで感情描写に作者の思いが入った2人の生涯は、凡そ次のように書かれている。

司馬遷
死より辛い、「恥」の刑・「宮刑」を受けた司馬遷は死ぬこともままならず、悩み苦しみ抜くが父の遺言でもあり刑を受ける前から始めていた歴史書の執筆活動に生きる意義
を見いだし、生涯をかけて史記を完成させる。

自分と同じ不遇に終ったもの、敗者、などにも目を向け、現実の生活では再び開かれる事のなかった口が、書かれた人物の言葉を借りて、烈々と火を吐き、泣き、或いは憂憤を発した。

稿を起こして14年、刑のわざわいにあって8年、史記は一通り出来上がった。
これに増補、推敲を重ねて数年が過ぎ、史記130巻、52万6千5百字が完成したのは武帝崩御に近い頃であった。

最後の筆を終えた後の司馬遷の気持ちを中島敦はこう表現している。
「深い溜息が腹の底から出た。~~~歓びがある筈なのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安の方が先に来た」

☆理不尽な刑を受けながらも「史記」を完成させたことで、司馬遷は「史聖」ともいわれるが、作家司馬遼太郎さんは司馬遷を深く尊敬し、[司馬遷に遼(はる)かに及ばず]との意味を込めてペンネームを司馬遼太郎とした。

②李陵
匈奴の捕虜となった李陵は、「隙を見て敗軍の責を償うに足る土産をもって漢に脱走する」事を心に決め匈奴の王「単于(ぜんう)」の誘いを固く断り続ける。
一方漢の都には、李陵が敵に寝返ったとの誤った情報が伝わる。これに怒った武帝は李陵の家族を族滅(ぞくめつ・一族皆殺し)処分にする。

この事を伝え聞いた李陵は遂に匈奴側に協力、単于の娘をめとり匈奴の一員となる。

その頃漢からの使者、「蘇武(そぶ)」が匈奴に勾留され、降伏を拒否して自死を図るが蘇生する。
その後も頑として匈奴への帰順を拒み、山野で生死をさ迷う暮らしを続け、遂に19年ぶりに漢に帰る機会を得る。

李陵は旧知でもある蘇武の一連の振る舞いを見て複雑な心境に陥るが、やがて李陵にも漢に帰る機会が訪れる。
しかし蘇武と違って自分は匈奴に協力した身であることを自覚して、中島敦は李陵にこう語らせる。「帰るのは易い。だが、又辱しめを見るだけのことではないか?如何?」

その後の李陵については何も記録がなく唯、匈奴の地で死んだと伝わる。

☆李陵は悲運で数奇な生を送ったが、このこと故に「史記」や「漢書」などの正史に名を遺すことに成った。

◎歩きの途中近所の軒先で見事なチューリップを見かけ撮らせてもらった。
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