「武田氏滅亡」②新しい知見との出会い

3月29日の続き

平山優著「武田氏滅亡」を読んでいくなかで、今まで想定してなかった知見や初めての出会いなどの幾つかに遭遇した。
せっかくなので私自身のためにも、これらを書き残して置きたい。

①毛利家(安芸国広島県)と武田勝頼(甲斐国山梨県)との甲芸同盟が存在した。ーーー毛利家のことは色々調べ、この日記にも書いてきたが、私にとってこれは初めての知見である。
遠く離れた武田家と実際に使者による交際があり、足利義昭の斡旋も経て天正4年(1576)9月対織田信長で同盟を結んだ。
当時毛利家では織田との戦いを進めていた石山本願寺の救援活動に追われていた。

この戦国末期、通信手段が乏しい中で、生き残りを賭けて全国規模で合縦連衡(がっしょうれんこう)が行われていたことが分かる

備中松山藩初代・水谷(みずのや)氏を見つけた。
娘が住んでいる倉敷の隣、高梁市にある備中松山城は雲海に浮かぶ天空の城として城郭ファンに人気で、私も訪れたことがある。
この昔からあった城に天守閣を築き初代備中松山藩主となったのが珍しいヨミの水野(みずのや)氏だった。

城を訪れた際にこの名前を記憶したが、近辺の氏族には見当たらず疑問のままだったが、この本のなかで出自が分かった。
水野氏は北関東の名族・結城(ゆうき)氏の傘下で下館地方(茨城県)に勢力があり反北条で動いていた。その後江戸時代下館藩から転じて備中松山藩に国替えになったようである。

本願寺教如(きょうにょ)は甲斐を目指した。
天正8年(1580)4月石山本願寺顕如(けんにょ)と織田信長の和睦が成立、顕如紀州鷺森(さぎもり)に退去した。
これに不満の顕如の子教如は退去を拒み顕如に義絶される。その後教如は反信長の立場で本願寺門徒を組織化すべく活動、甲斐武田勝頼との連携を企図して天正10年2月甲斐入りに動く。

この時期、織田徳川軍の武田攻めが開始され、教如の甲斐入りと一向一揆の組織化は実を結ばなかった。
教如は後に徳川家康と結び東本願寺を創立し、浄土真宗の東西本願寺体制が始まる。

④勝頼最期の地は天目山ではなく田野(たの)。
武田勝頼自刃前の最期の戦いは教科書も含めて当たり前のように「天目山(てんもくざん)の戦い」で知られている。しかし天目山という地名は存在せず近くにある棲雲寺(せいうんじ)の寺号が天目山であり、寺の周辺が天目山とも呼ばれていた。

一次史料を見ていくと勝頼最期の地は地域呼称の天目山の範囲ではなく田野と呼ばれる地であり同地には勝頼最後の数々の伝説も残り、本来「田野合戦」と呼ぶのが正しい。

それにしても「武田氏滅亡」は稀にみる内容充実の本だった。歴史学歴史小説の違いを無言で示してくれている。

◎近くの小学校の垣根から覗くのはスイートピーの仲間のような気がするが?
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