本願寺のことなどあれこれ

私は現在に至るまで周りの宗教行事には素直に従うものの基本的なところでは無宗教無信心である。

山口県の実家は浄土真宗西本願寺系の門徒であり母親は常にお勤めと奉仕を欠かさなかった。

妻の方は東本願寺系の寺で門徒のグループ・講にも入れて貰っていた。

生まれ故郷の長州の農村は比較的浄土真宗の宗教色の強い土地で長州門徒と呼ばれ、隣の安芸(あき・広島県)門徒とならんで西本願寺の地盤であり、戦国末期織田信長が大阪の石山本願寺を攻めた折、この地域の戦国大名・毛利氏が石山へ兵糧を送って支援したのはこれと無縁ではない。

本願寺織田信長と和睦後秀吉の庇護も受けて生き残るが、家康の時代になり、当時の門主顕如(けんにょ)から別れた長男教如(きょうにょ)が大谷派東本願寺を興し、顕如から引き継いだ准如(じゅんにょ)は本願寺派西本願寺を名乗ることになる。

設立の経緯からも比較的西日本に西本願寺門徒が多く、東は東本願寺門徒が多い。

また浄土真宗の宗祖の親鸞は仏教の常識から離れて妻帯して子を成したため、宗門のトップや別院と呼ばれる重要な寺にはその血脈を持ったものが住職となる特別な慣習がある。

先日NHKBS1の1時間枠で放送された番組「340年越しの和解」は私の住んでいた大阪府八尾市で、何れも親鸞の血脈を継ぐ人物が住職を勤める東西本願寺を支える重要な寺同士が、あることから派生した遺恨を越えて和解し、宗祖・親鸞と中興の祖・蓮如の骨が両寺で分骨保管されるまでを記録したドキュメンタリーであった。

仏教の各宗には殆どの場合その下に少しの教義や寺脈の違いによる◯◯派というのが付いて回る。

本願寺に関わりがあり、分裂の経緯を知る立場から、教義が殆ど同じ宗教団体がなぜ小異を捨てて大同につけないのか日頃から疑問に思っていたが、内部、それも私が住んでいた地域でそういう問題意識と行動が出ていることに感動してしまった。

番組内でコメントした宗教学者が前代未聞のことだとコメントされていたが、その英断が私の住んだ八尾市であったことにも感慨がある。

🔘用事で垂水の街に出てコーヒーショップに入り窓から眺めていると、リュックサックを背負った人とスマホを手に持った人が他を圧倒して余りに多いのが少し不思議な光景に見える。

 

【そぞろ寒   スマホとリュック   往(ゆ)き交いて】

 

🔘公園の草むらに真っ直ぐ立っているのは穂の部分に白い毛が見られることから外来種メリケンカルカヤでないかと思われる。