「武田氏滅亡」①

ここ10日間くらいこの751ページの大著、〈平山優(ひらやまゆう)著「武田氏滅亡」角川選書〉 と格闘してきた気がしている。
とても一気に読める内容と量ではなく、頭と身体に休憩を入れながら行きつ戻りつし、悪戦苦闘の末にようやく読了した。

著者は最近時折NHKの歴史番組でも見かけるようになった中世史の研究者で、両親の故郷山梨県の県史の編さんに携わるなど、甲斐(かい・山梨県)国・武田氏や東国の中世史に関する著作が多い。

この本は、武田信玄死去後に跡を継いだ武田勝頼が暗愚(あんぐ)であった為に武田氏が滅んだという通説に依らず、膨大な史料や論文を読み込み、細部にわたって裏付けを取り、不充分な場合は敢えて断定を避けて見解や意見に留め、戦国で1、2を争う強者甲斐・武田氏の滅亡に至るプロセスを解明している。

武田信玄は長男義信と対外政策等で対立して死に追いやりその結果、自ら滅ぼした敵・諏訪家の息女が母親である諏訪勝頼を跡継ぎにせざるを得ないことになり、この事が武田氏譜代の重臣と勝頼との確執を生む要因の一つになっていると筆者は説く。

信玄死後勝頼は織田・徳川連合軍と天正3年(1575)5月21日史上有名な長篠の戦いで敗北するが、その後の立て直し攻勢で武田氏の領域はむしろ信玄時代より増加しており、取り巻く織田、徳川、上杉、北条などから変わらず強国として恐れられていることは注目すべきことかもしれない。

その後滅亡に向かう要因は何なのか、詳細分析を踏まえ次の諸点が重要な転機になっていると著者は考えている。

①甲斐武田、越後(えちご・新潟県)・上杉謙信、相模(さがみ・神奈川県)・北条氏政、3国和睦の挫折ーーー天正4年9月足利義昭が構想した反織田構想の一環であり戦国史を左右する可能性のあった3国和睦が北条氏と敵対する北関東の諸大名結城氏、佐竹氏等反北条方の意向でまとまらず挫折する。

上杉謙信の死去により越後国内で跡目争い「御館(おたて)の乱」が勃発ーーー北条氏からの養子景虎と景勝が争ったが、勝頼は当初中立から後に景勝方に肩入れした。
最終的に景勝が勝利し天正6年6月武田と上杉の同盟に至ったが、これが武田と北条の亀裂に繋がり、信玄以来の同盟が破綻、これより後に勝頼は常に北条氏との争いを背後に抱える事になる。
また勝頼が景勝に肩入れした過程で上杉から武田へ莫大な賄賂が使われた噂が士卒に流れ、武田内の結束にも影を落とす。

高天神城攻防での対応ーーー高天神城遠江(とおとうみ・静岡県)の要衝で長篠の戦い後、勝頼が奪って対徳川の重要拠点として甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、遠江駿河(静岡県)、上野(上野・群馬県)の武田領の有力国衆(くにしゅう)をこぞって籠城させていた。
徳川家康はこの城を包囲し、籠城3年遂に天正9年3月城兵は全滅、陥落した。
籠城方から再三の救援要請にも関わらず他方面からの敵の圧力を受け勝頼は援軍を送れず、結果的に領内各地で影響力を持つ国衆を見殺しにすることになり、これが武田領内で勝頼に決定的な政治的打撃を与え求心力と威信が失墜した。

このような重要な転機を経て、一族の裏切りを発端に織田徳川軍の総攻撃を受け天正10年(1582)3月11日勝頼は自尽(じじん)、戦国最強といわれた武田氏は滅亡した。

史料に見る同時代の人々の勝頼への評価は、「有能な人物」でその滅亡は「運が尽きた」と認識されていた。
それが暗愚故と評価が暗転するのは近世以後でとりわけ近代になって「家を滅ぼした人物」として酷評されるように変わった。

◎ようやくレンゲソウに出会う季節になった