家康の長男・信康誅殺事件

苦難の末に天下統一を果たした徳川家康の生涯を振り返った場合なんと行っても第一の痛恨事は長男で跡継ぎの信康を妻の築山殿と共に死に追いやったことにあると想像される。

NHK大河ドラマ「どうする家康」ではちょうどこの頃を描いているが、小説的発想でかなり飛躍したストーリーになっておりこれを観た子供たちに誤った知識を与えないか少々心配になる。

この事件に関しては、古くから色々な説がとなえられているが、大筋は信康が母親の築山殿に同調して武田勝頼に通謀、この情報を得た織田信長が徳川家宿老・酒井忠次(大河では俳優・大森南朋)に尋ねたところ忠次は信康を庇いたてせず、この結果から母親共々信康謀叛とされ死を命じられたというものである。

家康はこの後も織田信長との同盟関係を忠実に継続、また酒井忠次徳川四天王の一人として家康の重臣であり続けたことから、家康は無慈悲であるとか、築山殿や信康に愛情を感じていなかったなどの世評がある。

この事への家康の心情を読み取る手段として徳川四天王に対する祿高からの見立てを歴史家・本郷和人氏が最近新聞(何新聞だったか失念)のコラムに寄稿されているのを読んだことがある。その要旨は

天正18年(1590)家康が最初に禄高を明示して家臣に与えた際、四天王は井伊直政・12万石、本多忠勝榊原康政共に10万石、徳川随一と言われた酒井家次(忠次は隠居)3.7万石で明らかに見劣りする。

・この状況は家康が天下人になっても変わらず家康の死後酒井家は加増が始まり重鎮の地位を回復する。

・信康を死に追いやった酒井は憎いが忠次は有能であり徳川のために働かせなければならないがせめて譜代第一という栄光は剥奪せねば、というような葛藤を抱えながら素の思いを圧し殺していたと家康の心境を推し測る。

🔘どういう経緯であれ自分の跡継ぎや妻を死に追いやることに荷担したものに何の感情を抱かないのは明らかに不自然であり、やはり家康は通常の親と同じ感情を有していたが、通常の親とは違いそれを圧し殺すことに長けていたとみる方が自然と考えられる。

 

🔘一日一句

 

不精した散髪終えて半夏雨(はんげあめ)

 

🔘近くの施設の庭、グラジオラス