泉寿会ゴルフと本多平八郎忠勝

◎昨日はホームコースで70歳以上が参加する泉寿会の例会、初参加の方が一人組み合わせに入りラウンドしたが、下の名前が「忠勝」と書かれており私が「徳川四天王の一人・本多平八郎忠勝ですね」と言うと、まさしくその由来で名付けられたとのこと。面白い出会いだった。

スコアーは前半46、後半40、トータル86、目標の90切りはOKながら前半1ホールの4オーバー、OBの大叩きが悔やまれる。

私は防長二州と呼ばれた山口県の出身なので、一帯を治めた毛利氏ひいきからすると関ヶ原の仇敵とも云える徳川氏はどうも好きになれず、このブログでも関連することにあまり触れた事はない。

今回行きがかりから初めて徳川家臣の事を書く気になった。
徳川氏に仕える本多氏は大族で武の面では忠勝の、文の面では謀略の才能を発揮した本多正信の系統が家康の天下取りを支えた。

本多平八郎忠勝の初陣は13歳の時、家康が今川氏の保護の元に置かれていた頃からといわれ、家康の生涯の戦いの最初から従軍していたことになる。

作家・司馬遼太郎さんが徳川家康を書いた「覇王の家」には当然ながら忠勝の事が頻繁に出てくるが、その中で家康が武田信玄と戦い大敗北、窮地に陥った「三方ヶ原の戦い」の局面での描写では、

本多平八郎は偵察に出た部隊を武田軍から逃がすため道路上で火を焚かせて視界を遮った。

『「三河者はおもしろいことをする」と、信玄は遠くから望見しつつ感心したがやがてこれが家康の若い部将の本多平八郎がやったことだということが知れわたり、武田方の何者かが、〈家康にすぎたるものが二つあり唐(から)の頭(かしら)に本多平八〉という落首(らくしゅ・匿名のざれうた)を浜松の東郊に残した』
☆唐の頭とはヤクという動物の尻尾で兜の飾りに使う。

後年、本多忠勝は最愛の娘を真田昌幸の長男・信之(のぶゆき・幸村の兄)に嫁がせた。小松殿と呼ばれた娘は関ヶ原の際、留守の城を預り、敵になった舅(しゅうと)昌幸の城入りを拒んで名を挙げたエピソードがある。

昨日朝の金剛山
f:id:kfujiiasa:20211121193718j:plain
昨日朝の葛城山
f:id:kfujiiasa:20211121193808j:plain
昨日朝の岩湧山
f:id:kfujiiasa:20211121193906j:plain
◎ホームコースには各9ホールの3つのコースがあるが、各々金剛、葛城、岩湧の名前が付いている。